<中編>では八幡神の役割を解明しました。<後編>ではその発展と比売神の正体までを論じます。
13.八幡神の再登場
蘇我と物部の皇位を巡る争いを収めるために571年に宇佐の地に八幡神を祀りました。神託により蘇我・物部の血が半分ずつの敏達(びだつ)天皇を定め、平和裏に継承を行わせるという役割を果たしました。
百数十年後。宇佐八幡の社伝では712年に宇佐市上田(現在の鷹居神社)に八幡神が現れ、716年に宇佐市北宇佐(現在の小山田神社)に遷し、725年に現在の社地に遷して「御殿を造立」します。
八幡神はなぜ再登場したのでしょう。八幡神は皇族の祖先神ですから、社殿を建てることができるのは天皇かそれに準ずる人です。当時の政治状況に手掛かりがあるかと調べてみても天皇継承問題など大きな契機は見当たりません。
天武(てんむ。第40代)天皇の死後、藤原不比等(ふじわらふひと)はキングメーカー(天皇を自由に擁立できる実力者)として朝廷の政治を牛耳りました。不比等は古事記と日本書紀を編纂し、日本の神話と歴史を創造しました。
その神話と歴史を可視化するために日本各地に神社を建設しましたが、八幡神は古事記と日本書紀に記載はないものの、その一環として712年に鷹居神社を造ったのかもしれません。
716年は元正(げんしょう。第44代)女帝即位の翌年。725年は聖武(しょうむ。第45代)天皇即位の翌年です。即位のお礼に社殿を造ったものか。この間、720年にはキングメーカーの藤原不比等が亡くなっています。
14.長屋王の祟り
聖武は即位しましたが、実質的に政権を握ったのは天武天皇の孫の長屋王(ながやのおう)でした。そこで聖武は729年、長屋王一族を皆殺しにします。
長屋王の変と呼ばれる事件です。変の後、藤原不比等の子である藤原四兄弟が政権を担い、藤原不比等の娘が聖武の皇后になります。
737年、藤原四兄弟が天然痘で相次いで病死。聖武天皇にとって長屋王の祟(たた)り以外に原因は考えられません。聖武は翌年宇佐八幡宮境内に弥勒寺(みろくじ)を建立します。
長屋王には弥勒菩薩(みろくぼさつ)の導きで成仏してもらい、祟るのをやめてもらおうと考えたのでしょう。当時の弥勒菩薩信仰には死者の安寧を祈る意味が込められていました。
740年に起きた藤原広嗣(ひろつぐ)の乱も長屋王の祟りと考えたようです。乱の平定にあたって、聖武は大野東人(おおののあずまびと)を大将軍に任じて討伐を命じますが、八幡神に乱を鎮めるよう祈願させています。
平定後、弥勒寺に三重の塔を寄進し謝意を表しました。なぜ弥勒寺に寄進することが八幡神への謝意になるのか、それは神と仏が習合していたからなのですが、詳しくは完結編にて述べます。
聖武は長屋王の祟りに悩み、740年恭仁(くに。京都府木津川市加茂地区)に遷都。その後短期間に紫香楽(しがらき)、難波(なにわ)と遷都し、745年に平城京に戻ります。この間、聖武は長屋王の祟りを鎮める最終手段として大仏建立を思い立ちます。その建立にあたって頼ったのが八幡神です。これが八幡神の大躍進に繋がります。
15.手向山八幡宮
東大寺南大門をくぐり参道を北に進みますと回廊で囲まれた大仏殿に行き当たります。その右手(東)に赤い鳥居が建ちます。その奥、東大寺東塔跡を見ながら坂を登り切ったところが手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)です。
八幡神は東大寺の守護神として宇佐から勧請(かんじょう)されました。創建は天平勝宝元年(749年)。宇佐から八幡神を乗せた神輿(みこし)、これは日本初の神輿だそうですが、それが通った東大寺転害門(てがいもん)は奈良時代のまま残っています。
聖武(しょうむ)天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのは天平15年(743年)。大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)。大仏殿の竣工は天平宝字2年(758年)でした。
東大寺大仏の建立はあまりにも巨大な国家事業でした。世界最大の青銅製仏像であり、それを覆う大仏殿も世界最大の木造建築でした。国家威信を賭けた事業の守護神として選ばれたのが八幡神でした。東大寺は完成し、八幡神の権威は国家レベルにまで高まりました。
因みに巨大な大仏と大仏殿、高さ70メートルを超える東西の塔を建てる技術は高度なものが求められ、秦氏を中心とする多くの帰化人が建設に当たりました。
749年に宇佐八幡神は大仏の表面を飾る金の鉱山の発見を予言し的中していますが、これも帰化人の鉱山技師が関わっていたと思われます。八幡神は「秦氏歴代の王の神」。それらの人々の信仰の受け皿にもなっていたと私は考えています。
16.宇佐八幡神託事件
46代孝謙(こうけん)天皇は聖武天皇の娘です。実力者・藤原仲麻呂(なかまろ)は孝謙を退位させ、47代淳仁(じゅんにん)天皇を擁立し実権を握りました。孝謙は上皇になります。
天平宝字8年(764年)、「藤原仲麻呂の乱」で仲麻呂と淳仁天皇が失脚した後、孝謙上皇は重祚(ちょうそ)して48代称德(しょうとく)天皇になります。
僧・道鏡(どうきょう)は孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世しました。政争に嫌気がさした称德天皇は、血筋で決められていた天皇という地位を血筋から切り離し、血筋に関係なく適任者を天皇に就けるという大胆な考えを抱きました。その候補者が道鏡です。
神護景雲3年(769年)、「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の神託が出されます。当然のことながら「万世一系」として続いてきた天皇制を変えようというのですから反対勢力は巻き返しに出ます。
神託を確かめるべく和気清麻呂(わけのきよまろ)を勅使として宇佐八幡宮に派遣したところ神託は虚偽であることが判明。道鏡は失脚します。
ここで読者の皆さんは国家的権威を持つ八幡神の神託が覆ることを不自然に感じられたかもしれません。現社地に社殿が整ってから44年。この間、宇佐八幡宮は聖武天皇からの度重なる寄進を受け、ひとかどの荘園領主になっていました。自社の利害によって神託が左右されるようになっていたのです。
17.比売神
聖武天皇の世、733年に比売神(ひめがみ)を祀り始めます。比売神とはどういう神か論争があります。
宇佐八幡では、比売神とは近くの山に降臨したタキツ姫、イチキシマ姫、タキリ姫の三神で、八幡神がこの地に示顕する前から宇佐の地に祀られていた地主神とします。
この三女神は宗像大社(むなかたたいしゃ。福岡県宗像市田島2331)の主神で、航海の安全を守る神として有名です。宇佐は応神天皇縁(ゆかり)の地。応神の東征船団の出発地である証拠と考えられます。その航海に先だって宗像大社より三女神を勧請(かんじょう)したのでしょう。
一方、比売神(ひめがみ)を「日の女神」、即ち「日神子」(ひみこ)とするなら、それは邪馬台(ヤマト)国の女王卑弥呼(ヒミコ)を意味するのではないかという説があります(井沢元彦著「逆説の日本史1古代黎明編」)。
18.比売神の正体
井沢氏によれば、皇族のみに与えられる位階である一品(いっぽん)という品位が八幡神と共に比売神にも贈られており、朝廷はこれら二神を皇室の祖先神と考えていた証拠であるとします。
女王ヒミコが治めたヤマト国は「神武東征」により大和国に入ります。ヒミコは古事記と日本書紀では太陽神アマテラスとされますが、実質上の初代天皇である崇神(すじん)の祖先です。
更に井沢氏は宇佐八幡では「二礼・四拍手・一拝」という出雲大社と同じ拝み方であることにも注目します。「四拍手」の「四」は「死」。祟りの封じ込めだというのです。出雲大社には崇神王朝に征服された出雲族の王・オオクニヌシが祀られています。
ヒミコは初代崇神天皇の祖先ですが、崇神王朝は八幡神の象徴・応神天皇に滅ぼされました。ところが日本書紀では天皇の血筋を万世一系と偽装しましたので、応神天皇は崇神王朝最後の仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の間に生まれたとして王朝は続いていることになっています。
そのためヒミコも天皇家の祖先神として祀らざるを得ないものの、滅ぼされた者がもたらす祟りを封じ込める必要があったというのです。
古事記・日本書紀の流れ:
アマテラス(比売神)⇒(略)⇒10代崇神⇒(略)⇒14代仲哀・神功皇后⇒15代応神⇒
実際の歴史の流れ:
ヤマト国⇒(神武東征)崇神王朝⇒⇒⇒⇒⇒⇒X(途絶) (応神東征)物部王朝⇒
比売神が初代天皇の祖先ならば宇佐八幡に祀る三神の本殿の中央が比売神であることも説明できます。
結論として宇佐の地には5世紀初頭、応神東征の航海を前に宗像大社から勧請した三女神を祀っていたのですが、宇佐八幡の本殿にヒミコを比売神(日女神)として祀るようになり、両者が混同されて今日に至ったことになります。
第69話<完結編>に続く
写真1:東大寺大仏殿
写真2:手向山八幡宮楼門
写真3:手向山八幡宮北の鳥居と宝庫
写真4:東大寺転害門