第69話 宇佐八幡<中編>

投稿日:2016年9月02日

 <前編>では応神天皇が「秦氏の王」であったこと、八幡神とは「秦氏歴代の王の神」と考えられることを述べました。<中編>では八幡神の役割を解明します。

6.宇佐八幡の誕生

宇佐神宮宇佐鳥居と西大門

 八幡神の誕生から12年。八幡神はいよいよ宇佐に登場します。

 宇佐神宮の社伝によれば欽明天皇32年(571年)に「初めて宇佐の地にご示顕になった」とします。これは欽明天皇崩御の年です。応神天皇は北九州から東征してきたのですから、その故地にも祀られるべきですが、なぜこの時なのか。

 私は物部氏と蘇我氏の次期天皇をめぐる争いを調停する為であると考えます。以下、物部氏と蘇我氏が共に天皇家であったこと、蘇我氏も秦氏であったことを順に明らかにします。

7.天皇家としての物部氏

関連地図(国名は6世紀)

 唐突なようですが、先ずは応神天皇が物部氏であることを明確にしましょう。日本の歴史書である古事記と日本書紀は中国に倣って漢文で書かれています(古事記は万葉仮名による日本語を含む)。

 それを日本語に読み下すに当たり、「物部」を天皇の形容には「もののふ」、豪族の名称には「もののべ」と読み分けた誤りを私は指摘しました。「物部」を天皇の形容に使う以上、豪族の名前に同じ漢字は使えません。それが中国のルールです。物部氏は応神天皇に始まる5世紀の天皇家そのものと言えます。

 5世紀、応神天皇に始まる王朝の天皇家は物部(もののべ)氏でした。15代応神天皇から25代武烈天皇までを物部王朝と呼ぶことにしましょう。5世紀末、この物部王朝が衰えを見せます。

 526年、越前と近江を拠点とした継体(けいたい)天皇が大和国に入ります。応神天皇に始まる天皇家が物部氏であるなら26 代継体天皇の血筋は蘇我氏です。

8.天皇家としての蘇我氏

 蘇我氏が具体的な記述で歴史に登場するのは6世紀半ばの蘇我稲目(いなめ)からです。その稲目は二人の娘を欽明(きんめい)天皇に嫁がせます。欽明の父は継体天皇、母は仁賢(にんけん)天皇の娘です。

 天皇の妃を出す特別有力な蘇我という豪族が唐突に活躍を始めたのです。それに何十年か先んじて突然中央に現れた有力者は継体天皇だけです。継体天皇を蘇我氏の統領と考えてこそ初めて説明がつきます。

 又、蘇我と物部は対等な立場で争っており、これを前提に日本書紀を読み直せば継体天皇以降の皇位継承争いを矛盾なく素直に説明できます(アラカン社長の徒然草第38話「蘇我王朝と物部の血」)。

9.秦王と蘇我氏

 蘇我氏も天皇家であることを述べました。継体天皇に始まる王朝を蘇我王朝と呼びましょう。継体天皇が大和国に入るまで、蘇我氏は越前を本拠とし近江国までが勢力範囲でした。

 「旧事本紀巻十 国造本記によれば蘇我氏の若長足尼(わかながのすくね)が三国の坂中井(福井県坂井市丸岡町)に置かれた役所で国造(くにのみやつこ)をしていました。日本書紀によるとこの坂中井に継体は住んでおり、請われて507年、樟葉宮(くずはのみや。大阪府枚方市)で天皇に即位します。継体の出身地は高島郷(滋賀県高島市)です。」

アラカン社長の徒然草第24話「物部氏と百済」)。

 先に応神天皇の名が「ホムタワケ」で、秦氏の王を意味することを述べました。この「ホムタワケ」という名は、元は蘇我氏が使っていました。蘇我氏も秦氏だったのです。

 日本書紀は「応神天皇の元の名はイザサワケであったが、ケヒ大神の名と交換してホムタワケになったという説がある」と書いています。ケヒ大神とは気比神宮(福井県敦賀市曙町)の主神で、この地域を治めていた蘇我氏の祖先神と考えられます。

 その神の名が「ホムタワケ」で、この名を応神天皇に譲ったというのです。蘇我氏も秦氏であったこと、蘇我氏は先に大和国に入った物部氏の応神天皇に屈服したことを意味しているのです(アラカン社長の徒然草第26話 「気比大神と名前の交換と」)。

10.物部と蘇我の抗争

石清水八幡南総門

 秦氏は朝鮮半島南東部・辰韓(しんかん。秦韓とも)の地に居ました。4世紀の新羅(しんら)建国に伴い百済(くだら)経由で九州、そして大和に入った秦氏を率いた王族が物部氏。

 半島から直接越前に移住した秦氏を率いた王族が蘇我氏。物部と蘇我、何れも中国系の秦氏(はたし)の血を引く王家でした。そして物部氏と蘇我氏は元は一つの王家でした。日本書紀には継体天皇を応神天皇の五世孫と書いているからです。

 即ち、応神天皇は九州を目指し、その皇子は越前を目指したということです。前編「3.秦氏の王・応神天皇」で物部王朝の天皇は「中国の歴史書で実在が確認できるのは5人」と書きましたがこれとも符合します。九州から来た側が約百年、約五代を重ねた後に越前から五世代目がやってきたのです。

 故地「シンカン」(辰韓)の地名は物部の移住経路の「サガ」(佐賀)、蘇我の経路の「シガ」(滋賀)に残りました。「ソガ」(蘇我)も「シンカン」から来ていると私は考えています。

 蘇我の継体天皇の没後、物部との抗争を経て、物部の血が半分入った欽明天皇が539年に29代天皇になり、蘇我と物部の均衡の上に暫しの平和が訪れました。その欽明天皇が571年に崩御。緊張が一気に高まりました。どうすれば平和裏に収められるか。その手段として八幡神を使うことにしたのです。

11.八幡神の役割

石清水八幡南総門から見る本社

 物部も蘇我も元は同じ秦氏です。紀元前3世紀に中国の秦(しん)王朝の圧政から逃れ、朝鮮半島南東部で5百年以上暮らした王の一族が二つに分かれたものです。八幡神は一義的には応神天皇を意味するのですが、その「八」は「多い」という意味です。

 応神天皇のみならず遡って物部・蘇我共通の秦氏歴代の王を含んでいたに違いありません。応神天皇は朝鮮半島南部の百済、新羅を従え、更に日本を征服した偉大な王ではありますが、秦氏歴代の王を代表する存在に過ぎなかったのです。

 八幡神は物部と蘇我に共通する祖先神ですから中立な立場で次期天皇を決めてくれるはずです。その方法は占い。占いの結果を神託として示せば拘束力を生じます。秦氏は中国人であり高度な占い術も持っていました。

 そこで秦氏ゆかりの北九州は宇佐の地に神廟を建て、八幡神を祀りました。宇佐は応神天皇の東征船団の出発地であったものと私は考えています。

 占いの結果、蘇我と物部の血が半分ずつ入った敏達(びだつ)を次期30代天皇に立てるべしとの神託が出たのでしょう。占いとは言っても便法として使ったのみで、結果は決まっていたのかもしれません。欽明と敏達を合わせて46年間の平和が保たれました。

蘇我王朝血縁図:

蘇我王朝血縁図

12.石清水八幡

石清水八幡本社

 八幡神は単に物部王朝初代の応神天皇のみを祀るものではなく、秦氏歴代の王を包含するものであり物部と蘇我共通の信仰であったと述べましたが、その証拠があります。

 それは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう。京都府八幡市八幡高坊30)の存在です。貞観2年(860年)に清和天皇により創建され、その後歴代の天皇、上皇、法皇の度重なる参詣が行われる、皇室にとって重要な神社になります。

 その所在地は男山の上。蘇我王朝初代、26代継体天皇縁(ゆかり)の場所です。継体天皇は越前から大和に入ろうとしますが、507年に樟葉(くずは)で即位してから526年に大和に入るまで19年間も樟葉に留まりました。男山は樟葉の裏山です。

 因みに石清水八幡は皇室の祖先神としてのみならず、創健した清和天皇の血筋である清和源氏の氏神になり、戦(いくさ)の神としても信仰を集めます。

第69話<後編>に続く

写真1:宇佐神宮宇佐鳥居と西大門
関連地図(国名は6世紀)
写真2:石清水八幡南総門
写真3:石清水八幡南総門から見る本社
写真4:石清水八幡本社