5月の連休中、平城宮跡に再建された大極殿(だいごくでん)を見ました。殿内に展示されている柱の断面は放射状に亀裂が何本も入っています。こんな木材を使って大丈夫でしょうか。気になって大極殿の柱を観察しました。
縦に亀裂が幾筋も走り、とりわけ荷重の懸かる四隅の柱は不安を感じる状況です。木材の質もですが、建物上部の重量が柱の太さに比べて過剰ではないかと、建築の素人ながらその不安定感に心配が昂じます。
私は7世紀に建てられた法隆寺金堂、鎌倉時代に建てられた東大寺南大門など古建築を身近に見ていますが、こんな気持ちになったことはありません。
創建時の大極殿の建物は背が低く、庇(ひさし)も短く、一層構造だったのではないか、少なくとも上部構造がもっと簡素だったのではないか。そんな思いが浮かんできました。
1.遣唐使
学校の歴史の授業で平城京は唐の都・長安(ちょうあん)を模範に造られたと教えられました。実はそれが間違いであることを私はアラカン社長の徒然草第7話「平城京遷都と山の神」<後編>で指摘しました。
702年(大宝2年)、32年ぶりに遣唐使が派遣され、二年後日本に戻ってきました。彼らは唐の都・長安に行ったのではありません。周の都・神都(しんと)です。
当時、中国は武則天の時代です。武則天は唐の高宗(こうそう)の皇后でしたが、690年に皇帝に即位し国号を周と改めました。唐という国を乗っ取り新しい周という王朝を始めたのです。武則天は都を洛陽(らくよう)に定め、神都と改名して長安から遷都していたのです。
武則天は、夫である高宗が683年に崩御した後即位した中宗(ちゅうそう)をその弟の睿宗(えいそう)にすげ替え、690年には自ら皇位に就いたものです。通常の王朝交代とは異なり、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称して平和裏に王朝が替わりました。
時の権力者・藤原不比等はこれを利用しようと考えました。日本にも持統天皇という女帝が立っているのですから、持統に始まる新しい自分の王朝を周になぞらえて始めようと考えたのです。
そして周に使節を派遣し調査させた、それが大宝2年の「遣唐使」でした。周は一代限りで終わるのですが、未来のことを知る由もありません。
2.藤原王朝の新都
704年(慶雲元年)、遣周使が戻ってきました。藤原不比等は計画を実行に移します。
持統天皇は遣周使が出発した後、その年の暮れに亡くなっています。不比等は編纂を進めていた国史・日本書紀に持統天皇の治世を記述するにあたり、その即位を「持統天皇四年」の項に記載させます。持統天皇四年は西暦690年。武則天の即位年に合わせたのです。
藤原氏による新しい王朝の為の新しい都。それが平城京です。神都と正確に同じ緯度(北緯34度41分24秒。平城宮の中心緯度)に新都を建設します。構想から設計、建築、遷都までかなり慌ただしかったはずです。このことからも大極殿は簡素な建物であった可能性が高いと言えるでしょう。
不比等は、持統天皇の息子の文武天皇に娘を嫁がせ、生まれた子(後の聖武天皇)にも娘を嫁がせ、藤原王朝を確固たるものにします。
3.藤原宮
平城京の前の都は藤原京です。日本書紀によれば藤原京は持統天皇が建設したことになっていますが、実際は天武天皇の事績です。
「本薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立したものです。藤原京右京八条三坊全域を占める巨大な寺でした。正確に都の区画に合わせて立地しますので、藤原京の建設も同時期に進められていたことが解ります。」
なぜ持統の事績にする必要があったのか。武則天の遷都と即位は共に690年。持統天皇は即位年を武則天に合わせたものの新都である平城京の建設は後になってしまいました。
そこで藤原不比等は当時既に建設中であった藤原京を使うことにして、持統天皇が即位した690年に遷都を決意、その四年後の694年に遷都、としたのです。
その下地には、天皇家にとって天武天皇は好ましからぬ人物であった事実があります。古人大兄皇子(後の天武天皇)は天智天皇を暗殺しました。天智天皇の子・大友皇子は即位して弘文天皇となっていたものを古人大兄は壬申の乱で滅ぼしました(アラカン社長の徒然草58話「天武の血」<後編>)。
天武天皇の功績を小さく日本書紀に記述することに抵抗感はありませんでした。
ところで「藤原京」という名称は日本書紀にはありません。新益京(あらましのみやこ)です。そして新益京の大内裏(だいだいり)を藤原宮(ふじわらのみや)と記します。ずばり藤原新王朝の宮城を意味しています。
4.遷都
710年に新都平城京に遷都します。平城京は碁盤目状に道路で区切られ、北端の一条北大路と二条大路の間に平城宮(大内裏)が造られました。大極殿は平城宮の中核建造物です。
平城宮から真っ直ぐ南に延びる中心軸となる道路が朱雀大路(すざくおおじ)です。朱雀大路の南端が羅城門(らじょうもん)。東西に走る九条大路の中央にありました。羅城門を出て道は一直線に南へ20キロ、藤原京まで伸びていました。下ツ道(しもつみち)です。
この下ツ道は藤原京の中心軸から西に1キロずれています。二つの都の中心軸が重ならないように何らかの意識が働いたものと思われます。
下ツ道は藤原京の右京(天皇は南面するので天皇から見て右、即ち西半分)に入ります。下ツ道と平行してその東側2キロには中ツ道があります。中ツ道は藤原京の左京と平城京十条大路のほぼ東端を結びます。更に2キロ東に上ツ道(かみつみち)がありました。
これらの古代道路は藤原京から移築する資材を運ぶ為に整備されたものと思われます。建築構造を支える太い柱や梁の木材は伐採から乾燥、加工まで時間が掛かる上に貴重です。藤原京の多くの建物、それは役所、寺院、貴族の館などですが、解体され平城京へ移築されました。
下ツ道は中谷酒造の東170メートルに健在です。下ツ道に限らず、奈良盆地を南北に結ぶこれら三本の道路はかなりの部分が今も通行可能です。現代に繋がるインフラ資産と言えるでしょう。
5.大極殿の移転
大極殿は朝廷の正殿で、殿内には天皇が座る高御座(たかみくら)が置かれ朝廷の儀式が行われました。
大極殿は都の中央を南北に貫く朱雀大路の延長上、即ち中心軸の北端にあり、2010年に再建された大極殿はこの跡に建てられました。実は平城京にはもう一つ大極殿跡があります。
第二次大極殿と言い、最初のものを第一次として区別しています。第二次大極殿は、第一次大極殿の東側の隣接地に建てられました。経緯は次の通りです。
第一次大極殿は、740年恭仁宮(くにのみや。京都府木津川市加茂地区)遷都に伴い恭仁に移築されます。その後短期間に都は遷り、紫香楽(しがらき)宮、難波(なにわ)宮を経て745年に平城京に戻されます。
この時に以前の大極殿の東側に基壇の盛り土をして建てられたのが第二次大極殿です。
中国の考え方からすれば大極殿は都の中心軸上にあるべきです。第二次大極殿はそれを東にずらしたのです。そういえば藤原京から平城京に遷都した時も中心軸をずらしました。どういう思想で大極殿を軸から外したのか、興味が涌きます。
6.再建
平城遷都1300年記念の大極殿復元事業で710年遷都時の第一次大極殿の再建が計画され、2010年に完成します。
第一次大極殿の基壇はあまり残っておらず、その位置と規模、階段の位置がようやく確認できただけです。手がかりとなったものは、移築された恭仁宮の礎石跡の調査結果から判明した礎石の配置とそこから推測される柱の太さだけです。
再建された大極殿の最大の特徴である二層構造は、平城遷都から400年も後の1100年に編纂された中国北宋の建築技術書にある「殿堂」から採りました。
具体的な構造は7世紀に建てられた法隆寺金堂を参考にしました。法隆寺金堂も二層構造を採っているからですが、法隆寺より明らかに重心の高い大極殿も同じ構造で済むのかどうか。
私は施工した竹中工務店のHPを見ました。それによれば「初重(引用者注:第一層のこと)大壁(古来の土壁)に構造性能を持たせ耐震壁とする」と共に基壇には最新の免震装置が組み込まれているそうです。とにかく明るい安村に「穿いてますよ」と言われた時の微妙な気分になりました。
大極殿復元事業で再建したのですが、「復元」と言う言葉は正確さを欠くようです。
第67話終わり
写真1:再建された大極殿
写真2:放射状に亀裂の走る柱材断面
写真3:幾筋も亀裂が走る大極殿北西の柱
写真4:平城京の地割図(平城宮跡資料館)
写真5:大極殿内に作られた高御座
写真6:恭仁宮跡
写真7:朱雀門(手前)と第一次大極殿模型(平城宮跡資料館)