明治時代の半ばまで砂糖は高価でした。果実を除けば日常の甘みは麹(こうじ)から得ていました。各家庭で甘酒や味噌、それに酒を作りましたので、日本人にとって麹は大層身近なものでした。
米麹を売る麹屋は鎌倉時代には既にありました。今日も使う「手前味噌」という言葉、これは自分が作った味噌が一番旨いと自慢することです。味噌は、明治に醤油が全国に普及するまで調味料の主役でした。
近代に入って砂糖が安価になり、甘味を麹に頼ることが少なくなります。味噌も既製品を買うのが普通になりました。家庭で造る酒は、明治時代に酒税法が施行されてから密造酒ということになり、戦後になってほぼ根絶しました。
数年前、塩麹(しおこうじ)が流行り、麹が食品スーパーの棚にも入りましたが、塩麹は既製品としても販売されていますので必ずしも家庭で作りません。
麹を見たことがない人がほとんどですし、そもそも麹とは何かを知る人はごく一部に限られます。今回は酒と麹の話です。
1.アルコール発酵
酒はアルコール発酵によって造られます。その原理は、酵母菌が葡萄糖(ぶどうとう)を食べてアルコールと二酸化炭素に分解するものです。
ただ、清酒の原料は米、即ち澱粉(でんぷん)ですから、先ずは澱粉を葡萄糖に変えてやる必要があります。これを糖化といい、それを行うのが糖化酵素です。この糖化酵素を麹菌(こうじきん)が作ります。
澱粉 ⇒(糖化)⇒ 葡萄糖 ⇒(アルコール発酵)⇒ 酒
2.米麹
麹菌は黴(かび)の一種で、蒸した米、麦、大豆などに生えます。これら原料の種類に応じて米麹、麦麹、豆麹と呼び分けます。
酒や家庭で作る味噌に使うのも、甘酒にするのも、塩麹に使うのも米麹です。米麹は我々にとって一番馴染みがありますので、単に麹と言えば米麹を指します。
通常、麹に使うのは黄麹菌(きこうじきん。oryzae)。生育には適度な温度と湿度が必要です。蒸した米に黴の胞子を振り掛け、30度に保たれた部屋の中で、米粒に菌糸を生育させます。菌糸が生長した米が麹です。
菌糸が生え回った部分は白くなりますので外観は白っぽい米粒といった感じです。
麹の役割は糖化にありますので菌糸が米粒全体に回り、糖化酵素をたくさん持つ、糖化力の強い麹が良い麹です。麹の菌糸が米粒全てに回り、柔らかく真っ白になった麹を総破精麹(そうはぜこうじ)と呼びます。
ところが清酒、とりわけ吟醸酒は、突破精(つきはぜ)と呼ばれる特別な麹を作ります。これについては後述します。
3.並行複発酵
清酒のもろみ(発酵液)は、水と蒸した米、麹、酵母菌が混じり合った液です。麹が溶けていきますと、徐々に米の糖化が進み、即ち葡萄糖ができ、酵母菌は増殖しながら葡萄糖を食べてアルコールを作ります。
酵母菌は、餌である葡萄糖の密度が高すぎると増殖速度が鈍ります。糖化の速度は酵母菌の食べる量と増殖速度に合わせたものでなければなりません。従って糖化とアルコール発酵のバランスが大切になるのです。
このように糖化とアルコール発酵が同時に進むことを並行複発酵と言います。清酒における並行複発酵の管理方法は経験と知識の積み重ねによって編み出されたものです。
他の醸造酒と比べてみましょう。ワインはブドウ果汁が原料です。ブドウ果汁は葡萄糖の液ですから単にアルコール発酵のみ。ビールの場合、原料の麦芽(発芽した麦)には糖化酵素が含まれています。
麦芽を破砕したものを湯に投入し、糖化に適した温度で糖化を終え、冷ましてからアルコール発酵だけを行います。単式発酵と言い、何れも清酒に比べれば発酵管理は容易です。
4.清酒用の麹作り
麹菌は米粒の表面で生育するにつれ熱を発し、温度が上がっていきますが、清酒用の麹はその昇温速度を調整します。菌糸の生育に連れ、酒の香りに好ましくない影響を与える物質を多く作り出す温度は短時間に経過させ、目標温度に達したらその温度帯を維持して菌を育成します。
菌糸が米粒の外側だけに生えるのは問題です。なぜなら麹は外側から溶け、糖化酵素量がもろみの中で一気に増えて糖化が進み、アルコール発酵とのバランスが崩れるからです。それは柔らかく容易に溶ける総破精麹(そうはぜこうじ)も同じです。
吟醸酒に用いる酵母菌は増殖力が弱い上に増殖が鈍る低温で発酵させますので、糖化は徐々に進む必要があります。
菌糸の生育が盛んになりますと空気を入れ替えて乾燥させ、米粒表面の生育を抑制し、菌糸を米粒の中に向かって生長させます。こうしますと麹が溶けるに従って糖化酵素がもろみ中に放出されます。
外観から見れば表面には点々と、或いはまだらに菌糸が回り、そこから米粒の中心に向かって深く菌糸が入り込んでいます。これが突破精(つきはぜ)です。
このように清酒、とりわけ吟醸酒用の麹は、温度はもちろん、菌糸の生長に合わせて乾燥のタイミングと度合いを操作しながら精密に作ります。
5.黄酒
「麹」には麦偏が付いています。中国の民族の酒は黄酒(こうしゅ)。日本では紹興酒(しょうこうしゅ)や老酒(らおちう)と呼ばれるものです。その麹の原料は米ではなく麦だったのです。
菌も黄麹菌ではなくクモノスカビ(rhizopus)。加熱していない生の澱粉に生えます。初夏に麦を収穫して粉に引き、水を加えて団子を作り、棚の上に並べて常温で置きます。秋になって米を収穫し酒を造るのですが、その頃には団子にクモノスカビが生えて麹になっています。
因みに黄酒も並行複発酵です。この技術は中国から日本にもたらされたに違いありません。5世紀、応神天皇は中国系帰化人の秦氏(はたし)と共に大和にやってきました。我々清酒メーカーが酒造りの神として祀る松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)は秦氏の神社です。
明治時代、日本では麦偏の「麹」に代えて米偏に花、即ち「米花」(これで一文字)という新しい漢字を作りました。ただ、「米花」を使うのは清酒醸造関係者に限られ、相変わらず「麹」が主流です。中国四千年の歴史の重みはこんな所にも表れています。
6.塩麹の作り方
麹菌は糖化酵素だけでなく蛋白質(たんぱくしつ)分解酵素も作ります。麹は、米に少し含まれる蛋白質をアミノ酸に変え、甘みに複雑な味を加えてくれます。これが塩麹の旨みです。
レシピによれば、塩麹は水に麹と塩を加えて常温で十日ほどでできるとされます。しかし原理から言えば温度を上げて酵素が働く速度を上げれば最短二時間でできます。
糖化酵素は55℃前後が一番よく働きます。但し、58℃を超えると酵素の活力がなくなります。高温に弱いのです。従って、水に米麹を入れて加熱し、55℃になったところで火を止め保温します。
二、三時間で徐々に温度が下がったとしても糖化は足ります。塩を加えて攪拌すればできあがりです。塩を加えなければ甘酒です。こう書きますと、「市販の甘酒に塩を入れれば塩麹」とお考えになる方もおられるでしょう。その通りです。(注)
注:市販の甘酒は60℃を超える温度で加熱殺菌をしていますので、糖化酵素及び蛋白質分解酵素が活性を失っています。そのため、例えば鶏肉に塩麹をまぶして一日程度置いた後に調理した場合、柔らさや旨みの増し方は加熱殺菌をしていないものに比べ劣ります。
市販の塩麹でも60℃を超える温度で加熱殺菌をしている製品は同様です。
第62話終わり
写真1:精米歩合39%の米(左)とその突破精麹
写真2:「米花」と書かれた清酒用種麹(たねこうじ)の箱