第58話 天武の血 <後編>

投稿日:2015年9月12日

園城寺(三井寺)金堂

 前編では天武の正体が、天智の異母兄・古人大兄であることを解明しました。そこから天武が天智の娘を四人も娶った理由が物部の血の維持にあったことも導き出されました。

 後編では天皇家の菩提寺・泉涌寺(せんにゅうじ)に天武の血を引く七人の天皇が祀られていない理由に迫ります。理由の一つは血。そして最大の理由は天智天皇と大友皇子の死に隠されていました。

7.天武系除

弘文天皇陵

 天武の正体が解った今、天武系最後の46代孝謙天皇(重祚して48代称德天皇)の血と、天智系に戻った最初の49代光仁天皇の血を比べてみましょう。

 光仁天皇は、天智の孫です。祖母、母共に蘇我と物部の血は入っていないようです。従って、混血比率は蘇我1/8、物部1/16。12.5%対6.25%、即ち2対1です。

 一方の天武系。藤原不比等は父・天智天皇と母・鏡王女の間の子で、鏡王女は蘇我、物部何れの血も入っていないとしますと、不比等自身は蘇我1/4、物部1/8。その女(むすめ)宮子と光明子の母は何れも蘇我、物部の血を引いていないとみて、蘇我1/8、物部1/16とします。

 孝謙天皇の比率は、蘇我9/32、物部5/64。28.125%対7.81%で、蘇我比率が物部の3.6倍と圧倒的に高くなっています。

 物部との対比で見る限り、蘇我比率が高すぎることは問題です。蘇我本家と天皇家の対立の結果、聖徳太子一族の血が絶えました(53話「法隆寺と斑鳩寺」)。天皇家は645年、乙巳の変でこれに報い、蘇我本家を滅ぼしました。天皇家は蘇我の血が濃すぎることを許さなかったのです。

天智天皇陵

8.天智暗殺

木幡東部の山並

 日本書紀の記述では、天智は671年12月に近江宮で病死したとされますが、井沢氏は「逆説の日本史2古代怨霊編」の中で天智天皇暗殺説を唱えます。根拠は次の通りです。

 天智は、日本書紀に墓所の記載がない唯一の天皇です。埋葬日も殯(もがり。貴人の死後、墓に埋めるまでの間、棺を安置して魂の平安を祈る儀式)の期間も記されていません。墓は山科にありますが、特異な死に方をしたと推測できます。

 平安末期、皇円という僧が書いた扶桑略紀(ふそうりゃくき)。天智は馬に乗って山階(山科)に出かけ、行方不明になり、沓(くつ)の落ちていた場所を墓にしたと書かれ、意味不明ながら「殺害」の文字も見えます。

 著者の皇円は園城寺(おんじょうじ。通称三井寺)の高僧。三井寺(みいでら)は大友(おおとも)皇子の息子(天智の孫)与多王が創建した天台寺門宗総本山。天智一族とは縁が深い寺です。大友皇子の墓(弘文天皇陵)も三井寺のある一画にあります。従って皇円の記述は信頼に値します。

地蔵院(宇治市小倉町寺内32)

 それを裏付けるのが天智天皇崩御の際に皇后(天武の娘・倭姫王)が詠んだ歌です。万葉集巻二148「青旗の木幡の上を通うとは 目には見れどもただに会わぬかも」。天智の魂が木幡のあたりを彷徨しているというのです。

 山科盆地に発する山科川は盆地の南から流れ出て、2キロ南の木幡(こはた)で当時は巨椋池(おぐらいけ)に注いでいました。巨椋池は、土砂の堆積と干拓で今はありませんが、南から木津川、北西から桂川、北から鴨川、北東から山科川、東から宇治川が流れ込む広大な面積の湖でした。

 大和国から見れば、木幡が山科の入口であり、木幡から北側が扶桑略紀が記す「山階」の範囲と言えます。

 宇治市小倉町の地蔵院にある「天智天皇」と書かれた碑は、かつて同町小字天皇にあり、そこが天智天皇墓との伝承がありました。暗殺され、実際に葬られた場所に伝承が残ったのかもしれません。

 当時、小倉(おぐら)は巨椋池の池畔であり、木幡の4キロ南です。天智天皇陵(山科区御陵上御廟野町)の辺りに沓が落ちていたとしてそこが事件現場なら、小倉までの水運距離は12キロ。川下りですし、帆が12月の北風を受ければ三十分です。

天智天皇陵(沓が落ちていた現場?)
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 ↓(山科川下り。南へ8キロ)
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木幡(死後の魂が「上を通う」と詠まれた場所)
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 ↓(巨椋池東岸沿い。南へ4キロ)
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小倉(天智天皇墓伝承地)

 「天智」という諡号(おくりな)は、中国史上悪名の高い紂(ちゅう)王の持つ玉(ぎょく)のことで、紂王を象徴しています。「天武」は、紂を討って商(しょう)王朝を滅ぼし、周王朝を建てた武王を意味します。武王は紂王を殺しています。

9.弘文天皇(39代)

「天智天皇」碑(地蔵院)

 日本書紀によれば天智天皇の皇子・大友は壬申の乱に勝利した天武に追い詰められ、死に至ります。井沢氏は掲題の書の中で次のように述べます。

 「天智が死んだのは671年の12月であり、壬申の乱によって大友『皇子』が死んだのは672年の7月である。この間七か月もある。政権の動揺を抑えるためにも、大友は即位して天皇になったはずだ。」

 「もし『大友が天皇だった』と書けば、天武の反乱(壬申の乱)は、天皇への反乱すなわち『大逆』になってしまう。大逆罪というのは、どんな場合にでも絶対に許されない。」

 従って日本書紀には即位した事実を書けなかったのです。天武はあくまでも天智と同じ血を持つ弟であり、壬申の乱があったものの正統な王位継承者である、という筋書きが作られました。

 明治政府は大友に「弘文」という諡号を贈り、「天皇」と認めています。弘文は38代天智の次の39代天皇となり、その次の天武以後、一代ずつ繰り下がりました。

 壬申の乱において天武の軍勢は、大友の近江朝廷側と区別するために着衣に赤い布を付け、赤旗を用いました。これは中国の漢王朝を建てた劉邦(りゅうほう)が、ライバル楚の項羽(こうう)との決戦において用いた故事に習ったことでした。

 中国では王朝の交代を「革命」とします。天武には「革命」によって近江朝廷にとって替わるという明確な意識があったのです。

10.桓武の郊祀

 天智系に戻った最初の49代光仁(こうにん)天皇と百済王家の血を引く高野新笠との間に生まれた山部親王が即位して50代桓武(かんむ)天皇になります。物部氏は百済王家と姻戚関係にありました(24話「物部氏と百済」)。天皇家にとって桓武の血は、より一層理想に近づいたに違いありません。

 桓武は延暦3年(784年)、平城京から長岡京に遷都します。その一年後、河内国交野(かたの)で郊祀(こうし)を行います。郊祀とは、中国で王朝交代時に天を祀る儀式です。桓武は天武系から天智系への回帰を明確に「王朝交代」として意識していたのです。

第58話終わり

写真1:園城寺(三井寺)金堂
写真2:弘文天皇陵
写真3:木幡東部の山並
写真4:地蔵院(宇治市小倉町寺内32)
写真5:「天智天皇」碑(地蔵院)