第57話 「ヒューマン」より<後編>

投稿日:2015年7月10日

 6万年前にアフリカを旅立った一握りの我々人類(ホモ・サピエンス)は、並行して進化してきた原人やネアンデルタール人を淘汰しました。「最終氷期が終わりに近づいた1万4千年前以降、徐々に温暖湿潤化が進行し、(中略)8千年前頃になると、現在と同じ気候となり」ます。

 我々人類は定住を開始し、農業、家畜の飼育を始め、都市をつくり、複雑な社会を形成していきます。NHKスペシャル取材班による「ヒューマン」(副題:なぜヒトは人間になれたのか)の続きを見て行きましょう。

 以下は同書を筆者なりにまとめたものです。引用は全てこの書物によります。段落と見出しは、書物とは関係なく筆者が割り振ったものです。

11.最古の戦いの遺跡

西アジア遺跡地図

 イラク北部、トルコやシリアとの国境に近いネムリク遺跡。「墓地からは120体の人骨が発見されたが、そのうちの数体の人骨に石の矢尻が刺さったままだったのだ。

 一軒の家からは、2本の矢が刺さった若い男性の頭蓋骨が出てきた。頭蓋骨は左側から激しく潰されていた。そして、その矢尻が村でつくられた物とは違っていた。」

 「私の見解では、最古の戦争はイラク北部、現在のモスル付近で起こりました。これは、世界中の証拠を検証した結果です。モスル付近には、三つの遺跡があります。ケルメズ・デーレ、ネムリク、そしてムレファートです。イラク北部のこの地域では、1万2千年前から9千年前のあいだに確実に部族間の戦争があったと言えると思います」。(ラトガース大学ブライアン・ファーガソン博士)

 「氷河期を乗り越え、ようやく訪れた暖かな時代。せっかく実り豊かな時代を迎えたのに、それがきっかけで、定住が起こり、縄張り意識が強くなった。そして人類同士の激しい闘争がはじまった。」

我々人類は厳しい環境の中を小集団で移動生活を続けている間、分かち合う心、身内を大切にする心が生存に不可欠でした。ところが、定住生活が始まると身内を大切にする心が、その裏返しとして他の集団に対する激しい闘争心に切り替わったと考えられます。

12.宗教の発生

 我々人類は定住するまで多くても150人までの小集団で暮らしていたと考えられます。「集団の中でズルをするフリーライダーを排除するためには、人の目が大きな役割を果たした。

 私たちの心には、他人の目に対して、非常に敏感な仕組みが備わっている」のです。そして、「恩返しをしない人からの脅威を避けるため、集団は血族、もしくは利他性によって恩返しをし合った隣人に限られていた」のです。

 集団が大きくなると全ての人に目は届きません。他の人の評判に基づいて人々は協力することになります。「宗教は評判の代役を果たします。(中略)共通した宗教を信じている人々に囲まれた社会で生活しているとき、彼らが信心深いことを知っているので、あなたは彼らが信頼できると思います。

 私たちは、古代では宗教がこうした協力関係を手助けするもっとも初期のメカニズムであり、それによって、社会に大規模な向社会性のようなものを築くことができたと考えています。」(オレゴン大学アジム・シャリフ博士)

13.「人間のような生き物が上位につくような宗教」

 トルコ南部、シリア国境に近いシャンルウルファ郊外にギョベックリ・テペ遺跡はあります。1万1千年前の宗教施設です。「宗教的な意味合いを持った遺跡というならば、もっと古いものがあります。たとえば、アルタミラやラスコーの洞窟もそうです。」

 この施設は人が建てた最も古いものです。円柱とそれを繋ぐ壁で囲まれた直径15メートルほどの円形の建物で、その中央には「人類の最初の神として描写されたものかも」しれない人間の造形であるT字型の柱が2本建っています。

 このような施設が20ほども隣接しています。「どうやら、非日常の施設であり、葬式など儀礼のための施設であるとともに、広い地域に住む人々が集団の枠を越えて共同で利用する施設でもあったのだ。」

 ドイツ考古学研究所のクラウス・シュミット博士は次のように述べます。

 「すべてが平等である精霊信仰の世界から人間のような生き物が上位につくような宗教が始まったのは、人類の歴史で初めてのことだと認識できます」。

 「ギョベックリ・テペ遺跡をつくった先土器新石器時代の社会が平等主義ではなかったと予測できるでしょう。階級が存在していたでしょう。旧石器時代には、世界中で平等主義の社会があったことが確実になっています。ここで初めて、平等主義がなくなっています。ここを起点として、古代オリエントの都市国家では王が上位にいて、古代エジプトではファラオが上位にいた。それはギョベックリ・テペではじまったのです」

14.農耕と家畜と宗教

 ギョベックリ・テペ遺跡からわずか60キロのところに小麦の原産地・カラジャダー山があります。ギョベックリ・テペに宗教施設が造られた頃、この地では小麦の栽培化と動物の家畜化が始まりました。

 カナダのサイモン・フレーザー大学のブライアン・ヘイデン博士は民族考古学者です。 「博士は、家畜が祝宴の際のご馳走のためにだけ使われ、日常の食物ではないことに気付く。(中略)結婚のような特別なときのために、家畜を飼い、祝宴に備える。(中略)ほかにも、借金をする、土地を購入する、政治的同盟を結ぶ、村を防衛するなど、目標を達成するためには家畜が必要なのだという。」

 ヘイデン博士は語ります。「同じ理論が穀物にも当てはまります。(中略)コメは非常においしく、風味豊かで、栄養価が高いという特徴があったので、人々はそれをいまのパーティーのような特別なときに使うことをはじめました。

 (中略)コムギについても、多くの点でコメと似ています。(中略)私は多分、初期はコムギを煮て食べていたと思います。ビールはつくるのに非常に手間がかかるので、祝宴のときにだけ使われたでしょう。祝宴のために、コムギのような穀物が使いはじめられるようになって、ビールやパンの生産が発達したと思うのです。

 ギョベックリ・テペ遺跡は、儀式の場所だと私も思います。それは、特別な集会場なのです。そこでは、祝宴が開かれ、野生のウシの肉やパンにしたコムギ、それに、多分ビールが振る舞われていたのではないでしょうか」。

 ギョベックリ・テペ遺跡とネムリクなど最初の戦いの遺跡の距離は400キロ。時期も同じです。ギョベックリ・テペは部族間の融和の場所であった可能性が高そうです。即ち、定住が進み、争いが起き、組織的な宗教のようなものが起こり、融和の場所が作られます。これら一連の変化の中で長い時間をかけて農耕が確立していくという流れが考えられるのです。

15.農耕の広がり

ヨーロッパ遺跡地図

 「初期の農業は、西アジアといっても、実際はイスラエルやレバント地方に限られていたことが分かる。それが徐々に西に広がり、約1万年前までにキプロスやギリシャ、ヨーロッパの南東部までに至る。しかし、そののち、拡大速度はゆっくりになる。農業活動はヨーロッパ南東部に留まったままになるのだ。そして、8400年前頃、突然、ヨーロッパに大規模な農業の波が押し寄せる。」(サウスウェールズ大学気候変動研究センター クリス・ターニー博士)

 ターニー博士は、ヨーロッパの氷河が溶けて地中海の海水面が上がり、8400年前、今日のボスポラス海峡にあった細い堤防状の土地を海水が乗り越えて東の巨大盆地に流れ込み、黒海ができたと考えています。当時、盆地の中心には淡水湖がありました。その周辺では農耕が行われており、徐々に農地が海水に飲み込まれていくに従って人々が農地を求めて移住していったというのです。

 「内陸に少しだけ進んだのではなく、次の1000年間でヨーロッパ全体に移動したのです。それは驚異的な移住率です」。

16.都市の形成

 今まで発掘された中で最も古い都市遺跡テル・ブラクはシリア北東部にあります。トルコ南部の宗教施設ギョベックリ・テペ遺跡と、イラク北部にある戦いの遺跡ネムリクを東西に結ぶ交易路の中間地点です。「紀元前4200年頃、テル・ブラクは大きな交易都市でした。その面積は50ヘクタールでしたが、紀元前3900年頃には、130ヘクタール、人口はおよそ2万人にまで拡大しました。」

 遺跡からは数千個の定型の鉢が出土しました。この鉢は定量の麦、もしくはパンを給料として渡すための道具と考えられています。「都市」とは、単に人口密度の高い場所を意味する言葉ではありません。

 自給自足の社会から一歩進んで、食料生産から切り離された多様な職業で生きる人々が集住する場所です。テル・ブラクでは、接着剤や防水剤に使うアスファルト、多数の貝殻、黒曜石、革製品加工に使ったとみられる骨製の錐(きり)、毛糸を紡いだと思われる「膨大な数の」紡錘体などが発見されています。

 都市住民の象徴とも言える給料制度を背景に分業が行われ、職業が多様化していたことがわかるのです。

17.文字の発明、王の神格化

 「都市が誕生した後、加速度的に分業は盛んになっていったと考えられている。」イラク南部サマーワにあるウルク都市遺跡。「紀元前3000年頃すでに250ヘクタール、人口4万人ほどの都市であったことが分かっている。」

 ウルクでは文字が使われていました。「誕生したばかりの文字で書かれた職業リストには、120種類の官職が載っていた。(中略)王(軍長とする説もある)、大工、歌手、楽器演奏家、敷物をつくる職人、祭りのリーダーなど、じつに多様な職業がならんでいる。」

 「当時、都市で暮らしていた人々は、複雑に分業した社会が繁栄していくのを目撃しました。そして、繁栄が約束されている都市に住み続けたいと願いました。彼らは、半遊牧的な昔ながらの生活をしている都市周辺の人々に対して、優越感を感じていました。田舎の人々を見下すほどの自信がみなぎっていたのです。

 旧石器時代以降、人々は超自然的な力を信じ、畏れていたという証拠があります。でも、都市の形成、社会の階層化にともなって、神々の世界も現実社会と同じように階層化され、人の世界と同じようなものだと捉えられるようになり、神は擬人化されたのです。

 地上にヒツジを太らせる羊飼いがいるように、ヒツジの繁殖を司る神がいます。さらに、次の段階に進むと、『私は人々の王であるばかりか、私は天国の王と同じ機能をもっているから、私は神である。私は天国の王と同じ責任があるから、私自身神である。』と言い出す王が現れます。これは紀元前3千年紀のメソポタミアにいた複数の王が、自らを神聖視していた理由です」。(ウィーン大学ゲッパルト・ゼルツ博士)

18.貧富の格差とその是正

 最古の都市テル・ブラクでは紀元前3800年頃に集団殺害されたとみられる400体の人骨が発掘されています。又、子供時代に栄養失調で骨の成長が遅れ、死ぬ間際にも栄養失調になったことを示す歯を持つ人骨も発見されました。都市では貧富の差が拡大し、紛争や極度の貧困があったと推測できます。

 ウルクでは紀元前3200年の粘土板に「『奴隷』のような階級」の人が大麦などと交換されていたことが書かれています。メソポタミアでは都市が周辺の農民を支配する都市国家が各地に成立していました。

 農民は農地の利用料や耕作用牛の使用料などを収穫した麦で払いますが、不作が続くと困窮し、債務奴隷になる者が出てきます。債務奴隷が増えると兵士として徴用できず軍事力が低下します。そこで王はアマギと呼ばれる債務免除令を出しました。「新しい王が即位した年、飢饉がつづいて多くの人が困窮した年、戦争の後などに行われた記録が各所に残っています」。

 王がアマギを頻繁に行った根底には「格差を嫌う私たちの心」がありました。狩猟採集社会で「もっとも嫌われるものは、ケチと自慢」(トロント大学リチャード・リー教授)です。

 「おそらく人類は、長い時間をかけて平等と助け合いを重んじる心を進化させてきたのでしょう。これは、人類がそうしなければ生き延びられない環境で生きてきたからなのだと思います」。(ラトガース大学エリザベス・トリコミ博士)

19.アテナイコイン

 「初めての国際貨幣となったアテナイのコイン。その登場は銀山発見に先立つ、紀元前550年頃だ。しかし、ラブリオ銀山が発見されてから、アテナイコインは大幅に増産された。アテナイが地中海沿岸の覇者になれたのは、この銀山があったからだといわれている。」

 アテナイコインが発行される前も銀は貨幣として使われていました。しかし重さも純度もまちまちでした。アテナイコインは重さも純度も一定で、「人々に信用され、国際的な貨幣になることができたのです」。

 ラブリオ銀山は無尽蔵とも思える銀を産出しました。銀はアテナイ(アテネの古称)に富をもたらし、人々の生活が豊かになり、市民の政治参加を促し、民主主義が実現します。「政治、学問、芸術、思想が発展し、西洋文明の原点ともいえる古代ギリシア文明が黄金期を迎えたのだ。」

 しかし、コインは眠っていた我々人類の本能を呼び覚まします。

20.無限の欲望

 「コイン以前のお金、つまり大麦のような穀類や動物などの原始貨幣は、大量に貯蓄するには問題がありました。なぜなら、大麦は腐り、牛は死ぬからです。(中略)コインによって、貯めつづけて、無限の富を築こうという考えが生まれました。

 物事はもっと良くなる、そのうちにもっと裕福になれる。一般の人にとって、コインは不滅の富でした。不確かな世の中で、不安定な人生のなかで、将来についての考え方を本当に変えたと思います。つまり、コインは『もっと欲しい』という人間本来の欲望に火をつけたのです」。(ホーリークロス大学トーマス・マーティン博士)

 「ギリシア悲劇は、アテナイにコインが導入された直後の、紀元前6世紀の終わりに出現しました。(中略)当時の人々が非常に意識し、悲劇の題材にしたのは、お金でなんでも行おうとする人々がいるという事実です。

 (中略)古代ギリシアの歴史家、哲学者は、お金を通じて権力を得て、さらにより多くのお金を得るために何でもしようとする暴君の姿を描きました。彼らはもっとも近い親族でも殺すだろうし、神殿を略奪し、聖なるものを侵害して神の怒りを買う危険さえ冒すでしょう。お金のためなら何でもするのです。

 無限の欲望は、我々にとっては非常になじみのあるものです。(中略)しかし、古代ギリシアの人々にとっては、お金は現れたばかりで、それも非常にすばやく現れたものでした。ソロン、アリストテレス、その後の哲学者にいたるまで、アテナイの人々にとっては、無限の欲望は大きな衝撃でした。」(エクセター大学リチャード・シーフォード博士)

21.そして現代

 アテナイは銀精錬の燃料に使うために木を切り続けました。木を切った後の土壌は流出し、海や河口に堆積して沼地となりました。蚊が繁殖してマラリアが蔓延、人口が激減しました。

 「ラブリオ銀山の奴隷鉱夫の反乱と銀の枯渇が、アテナイの衰退に追い打ちをかける。ペロポネソス戦争が終わる紀元前404年頃には、銀貨の量が激減し、輸入食料の不足で餓死者が出るまでになったという。アテナイの魔法は解けてしまったのだ。」

 アテナイを継いだローマ帝国では通貨供給の必要に迫られ貨幣の質を落として増産しました。そして今日、我々は紙幣を使っています。「実態を越えて一人歩きする架空のお金」の時代です。

 「欲望はフロンティアを求めて漂流しているというのだ。そして、本当の豊かさとは何かを問うこともないまま、新しいものを求める欲望だけが空回りしているように思える。そして果てしなく発行されるお金と引き替えに、先進国は国を超えて途上国の資源をかき集め、繁栄を続けている。しかし、私たちは今、地球資源の限界に直面している。」

第57話終わり

地図1:西アジア遺跡地図
地図2:ヨーロッパ遺跡地図