盤石とも思えた徳川幕府ですが、1853年にペリーが浦賀に来航しますと幕府は開国の是非を決めかね天皇の勅許(許可)を求めます。翌年、幕府は勅許なしで日米和親条約を結んで開国します。
1860年、開国に反対する天皇の意向を汲んだ浪人によって大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は地に落ちます。それから僅か7年余の1867年、徳川幕府は政権を天皇に返します。いわゆる大政奉還です。
天皇を担ぐ薩摩長州を中心とした軍勢が錦の御旗(にしきのみはた。天皇の軍隊を象徴する旗)を立てて進軍すれば、徳川勢は「朝敵」(天皇の敵)になることを恐れ、崩れ去りました。徳川幕藩体制の終焉です。
我々は中学、高校と日本史を学びましたが、幕府の権威があっけなく崩壊する一方、天皇の権威が突然見直されて急浮上し、天皇中心の新政権ができることが大きな謎でした。
表に現れた出来事の背景を知ることにこそ歴史を学ぶ意義があります。その疑問に答えてくれる参考書もなければ、教師も居ません。
最近読んだ「逆説の日本史17江戸成熟編」(井沢元彦著)の中にその答えをみつけ、心につかえていたもやもやが晴れました。今回は、読者の皆様にも井沢氏の研究成果を知っていただければと、その骨子を私流にまとめてみました。
1.国学の始まり
十年ほど前までテレビで時代劇が盛んに放送されていました。その定番に水戸黄門があります。身分を隠して諸国を巡り、旅先でみつけた悪党を懲らしめる勧善懲悪ドラマ。
身分を示す葵(あおい)の御紋が入った印籠(いんろう)を取り出し、「この印籠が目に入らぬか!」という決めぜりふは、若い人でもご存じでしょう。主人公の水戸光圀(みつくに。1628-1701年)は徳川御三家の一つ、水戸徳川家の藩主でした。
水戸光圀は、「大日本史」の編纂を始めます。その内容は、神武天皇に始まる日本の歴史であり、武家の世の前の時代、天皇が実権を持っていた時代から始まっているのです。その研究は国学の発展に繋がります。
光圀自体、皇室崇拝者になっていました。「我主君は天子(天皇)なり、将軍は我宗室なり、あしく了簡取ちがへ申まじ」という言葉を残しています。
紀州、尾張、水戸が徳川御三家ですが、水戸徳川家からは幕府に万が一のことがあった場合に天皇家との関係を維持できるよう、将軍を出さないことになっていました。(「逆説の日本史12近世暁光編」第三章天下太平の構築編)
幕末、初めて水戸家から将軍が出ます。15代徳川慶喜(よしのぶ)です。慶喜の母は皇室の有栖川宮家の出身です。慶喜が大政奉還を行い政権を返した上で徳川家も残りました。
2.朱子学と国学
中国の宋の時代、北を女真族が立てた金、後に蒙古族が建てた元という国に支配されましたので、それら異民族を悪とし、中華の正統性を説く学問として朱子学が生まれました。
徳川幕府を開いた家康は、朱子学を使って徳川幕府の正統性を強調しようと朱子学を奨励し、朱子学者の林羅山を政治顧問として大学頭(だいがくのかみ)に任命しました。
朱子学は誰が正統な統治者であるかを追求する学問です。朱子学者達は、研究を深める内に徳川幕府の前の、天皇が実際に権力を持っていた時代に注目し、天皇こそが正統であり、徳川幕府は天皇から政権を預かるに過ぎない存在として見るようになって行きます。
その研究の最前線が国学だったのです。
3.国学者・本居宣長
国学の主な研究対象は、8世紀にまとめられた万葉集や古事記でした。江戸時代の人々にとって万葉仮名や、漢文に万葉仮名を組み合わせた文章を読むことは極めて困難でした。
本居宣長(もとおりのりなが。1730-1801年)は古事記を読み込み、その内容を解明するに至ります。
日本にはインドから中国経由で伝わった仏教や中国思想が入ってきましたが、宣長は古事記を通してそれら外国の思想が入る前の、純粋な日本の思想を明らかにしようと考えました。
4.宣長の考え
中国の儒教の考えに「天」(てん)という概念があります。帝王が良い政治をすれば天はそれを祝福します。悪い政治をすれば天命が革(あらた)まり、王朝が替わります(これを「革命」と言います)。
「天」は日本にも伝わり、「至誠は天に通ず」(良い行いは天に認められる)、「正直者の頭(こうべ)に神宿る」(まじめに働いていれば良い報いがある)という言葉になります。
仏教はインドの因果応報説(前世の行いによって後世が変わる)を基本としています。これに「天」の概念が入り込み、「功徳を積めば極楽往生できる」(善行を重ねれば死後の安楽が得られる)という考えが広まりました。
宣長は中国から伝わった「天」の概念や因果応報説を徹底的に排除します。そしてたどり着いたのは、絶対神としての天照大御神(あまてらすおおみかみ)であり、その子孫である天皇を神とする一神教だったのです。
5.徳川家の認識
18世紀末、本居宣長は多くの弟子を持つようになり、その思想は全国に広まります。そして統治者である徳川家にも受け入れられます。
宣長が紀州徳川家に仕えて居た時、藩主徳川治貞に献上した著書「玉くしげ」序文について、井沢氏の解説は次の通りです。
「宣長は日本の統治権(大政)は天照大御神から東照神(徳川家康)を経て、将軍家に御任(委任)されているのであって、国民一人一人も決して「私民」ではなく天照大御神つまり天皇家から預かったものだと断言している。
それを徳川将軍家に近い一族である徳川治貞が、何の疑問もなく受け取っている点が重要である。
すなわち、この考え方はこの時点で既にスタンダードな「定説」として成立しているということだ。」(「逆説の日本史17江戸成熟編」第二章国学の成立と展開編)
6.幕末の思想
一神教と言えばキリスト教、イスラム教、ユダヤ教が思い浮かびます。一神教では、悪が栄えることも、善人が報われないことも、全て「神の思し召し」(神の意志)になり、信者は受け容れなければなりません。
例えば悪人が栄えているとしましょう。その悪人に天罰が下るよう神に祈ったところで必ずしも天罰は下りません。そうしますと神が善人の願いを聞き入れてくれないことになります。
「神が自分の思い通りに動かないことへの不満」が起こります。こうしますと人が主で神が従。こんなことを一神教では許せるはずはないからです。
本居宣長の天皇一神教も同様です。世の中が間違っていようが、悪がはびころうが、人生がつらかろうが、苦しかろうが、「神である天皇の思し召し」として堪え忍ばなければなりません。
そして死後は古事記に書かれているように等しく穢れに満ちた黄泉(よみ)の国に行きます。何か救いはないのでしょうか。
これに応えたのが本居宣長の弟子を自称する平田篤胤(ひらたあつたね。1776-1843年)です。
篤胤は、現世は現人神(あらひとがみ)の天皇が支配するが、黄泉の国(幽冥界。ゆうめいかい)は現世の支配を天照大神の子孫、即ち天皇に譲って引退した大国主(おおくにぬし)が支配するとし、人は幽冥界で生前の裁きを受け、善人は救われるとしたのです。篤胤の思想は一世を風靡しました。
7.天皇と「天」の混同
本居宣長が始め、平田篤胤が発展させた天皇一神教が日本に広まり、明治維新を成功させました。以下、井沢氏は明言していませんが、私なりの結論です。
平田篤胤が本居宣長の天皇一神教の欠点を補った「生前の生きざま次第で善人は救われる」とする考えがあったからこそ庶民に天皇一神教が受け容れられたものの、その補足自体が天皇一神教に反する矛盾をはらんでいたのです。
生きざまの善し悪しを天皇が見ていて下さるのであれば、天皇は中国思想の「天」そのものです。
1936年(昭和11年)2月26日、昭和維新を断行しようと陸軍青年将校が兵を率いて決起します。昭和を揺るがすクーデタ未遂、二・二六事件です。彼らは間違った政治を正そうと立ち上がり、その自分たちの行動を正義と信じていました。
自分たちの至誠は必ず「天皇」に通じると考えていたのです。絶対神である天皇と、中国思想の「天」の混同が生じています。天皇を現人神と教育していた戦前においてさえもこういった事が起きたのです。
考えてみれば、幕末に桜田門外の変を起こした浪人達も「至誠は天皇に通ず」と考えていましたし、錦の御旗を立てて進軍した薩摩長州を中心とした兵も「至誠は天皇に通ず」と考えていました。
国学は確かに天皇の権威を上げましたが、庶民にとって天皇は「天」でしかなかったのです。
8.日本人の心
日本に一神教は根付きませんでした。中国思想の「天」の概念を基に生まれた「至誠は天に通ず」(良い行いは天に認められる)、「正直者の頭に神宿る」(まじめに働いていれば良い報いがある)という言葉は日本人の心の中にあまりにも深く根付いていたからです。
戦後、天皇は現人神ではなくなり、日本国及び日本国民統合の象徴になりました(日本国憲法第一条)。キリスト教という一神教を信じる人の数も特段増えることはありませんでした。
今日、我々日本人の多くは日本古来の八百万(やおよろず)の神と仏を並立して拝み、「至誠は天に通ず」、「正直者の頭に神宿る」を信じて勤勉な生活を送っています。
第56話終わり
写真1:葵の御紋の印籠
写真2:徳川家康を祀る世良田東照宮(群馬県太田市)
写真3:中国に残るキリスト教会(天津市旧仏租界・西開総堂)
写真4:靖国神社鳥居