7.蘇我王朝
4番目の蘇我王朝の初代・継体(けいたい)天皇は、前王朝の初代・応神(おうじん)天皇の五世孫という設定で王朝間の接続を行いました。
現実としても蘇我王朝は前王朝の物部氏と姻戚関係を結ばざるを得ませんでした。物部氏の勢力は強く残存しており、継体の死後、8年間の抗争が起きます。やがて即位した欽明(きんめい)天皇、次の敏達(びだつ)天皇は蘇我と物部のハーフです。
587年、蘇我氏が物部氏を滅ぼしますと物部の血は不要ですが、その後も物部の血が入った天皇を傀儡(かいらい)として擁立し続けました。蘇我と物部の混血が天皇の血筋となり、今日に続く天皇家の概念が生まれます。
その天皇家から聖徳太子という素晴らしいリーダーが生まれたのは蘇我氏の誤算でした。死後も太子の評価は上がる一方です。それにつれて太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の人望も高まったため、蘇我氏は643年に一族を皆殺しにします。
そこに天皇家の逆襲が待っていました。645年、天皇家によって蘇我本家が滅ぼされるのです(第38話「蘇我王朝と物部の血」2013年8月)。
8.歴史書編纂
672年、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武(てんむ)は、天皇を中心とした中央集権国家の建設に邁進します。「天皇」の呼称を始めたのが天武天皇です。中国の「皇帝」を意識してのことでした。それまでは「大王」だったのです。
天武は日本を中国に対抗できる立派な国家にしようと考えました。中国は広大な国土と人口を擁します。そして長い文明の歴史を持ちます。日本も長い歴史と文明を持ち続けてきたという記録を残さなければなりません。
中国は絶対的な権力を持つ皇帝が統治します。日本も絶対的な力を持つ天皇が神代(かみよ)から統治してきたとする歴史を作り、天皇を神格化し、未来に向けて天皇による統治を容易にする歴史書を作ることにしました。
9.二つめの神剣
天武は二つめの神剣を創造します。アメノムラクモの剣(別名クサナギの剣)です。
石上神宮(奈良県天理市)の摂社・出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)に書かれた由緒では、「出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐す。
今を去ること千三百余年前、天武天皇朱鳥元年、布留川上日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、『今、此の地に天降り、諸の氏人を守らん』と宣り給い、即ちに鎮座し給う。」とあります。即ち、天武天皇治世の末年に石上(いそのかみ)で祭祀が始まりました。
10.二つの理由
なぜ二つめの神剣を創る必要があったのでしょう。天武はフツミタマの剣に欠陥があることに気づきました。なぜならこの剣は最初の出雲系王朝を倒す為に生み出されたものであり、出雲系王朝から継承されたものではないのです。
天武は王朝間の連続性を強化するほど長い歴史の頂点に自身が立つことになり、盤石な中央集権国家が形成できると考えました。その為には最初の出雲系王朝から受け継がれた剣が必要でした。
天武は太陽神ニギハヤヒとは別に、ニギハヤヒの祖先として太陽神オオヒルメを創造しました。出雲で祀られていた神・スサノオをオオヒルメ(古事記、日本書紀編纂時に「アマテラス」に改変)の弟ということにします。
スサノオは天下り、退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)からアメノムラクモの剣を得ます。そしてスサノオの子孫が大国主(おおくにぬし)、即ち出雲系王朝の王(神)ということにしました。アメノムラクモの剣こそ初代出雲系王朝から連綿と受け継がれてきた神器となったのです。
天武天皇が創造した神話と歴史は次のようなものだったと推測できます。
創造神イザナギとイザナミの結婚
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太陽神オオヒルメの誕生
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オオヒルメの弟・スサノオの降臨
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八岐大蛇退治(アメノムラクモ剣の神話)
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スサノオの子孫・大国主による国造り
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出雲系王朝の成立
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太陽神オオヒルメの子ニギハヤヒ神(神武天皇)の降臨
(鏡とフツミタマ剣の神話)
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大国主(大物主)の国譲り
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ニギハヤヒ神(神武天皇)と大物主の妹の結婚、
ウマシマジ(崇神天皇)の誕生(王朝間の接続神話)
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崇神王朝の成立(これ以前は神話、以後は歴史)
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ヤマトタケルの遠征(クサナギの剣の神話)
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仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の結婚、
応神(おうじん)天皇の誕生(王朝間の接続神話)
(物部王朝)
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継体(けいたい)天皇(応神天皇の五世孫という設定)
(蘇我王朝)
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天武天皇
11.神器鏡の再生
天武は太陽神オオヒルメの象徴として神器鏡を創造しました。その鏡を祀るために伊勢神宮を、二つの剣を祀るために石上神宮を建設しました。天武が創った「神宮」とは、「宮」の文字が示すように神器を安置し祭祀を行う役所・斎宮(さいぐう)のことでした。
天武が神器の鏡を創造したのは、初めて鏡を創造したであろう崇神(すじん)王朝を意識してのことでした。なぜそのようなことが言えるのか。
崇神王朝が奈良盆地に最初に造った前方後円墳・箸墓(はしはか)古墳は同王朝の始祖王(おそらく崇神天皇)の墓とみられますが、その古墳と、そのそばの太陽を祀る桧原(ひばら)神社、伊勢神宮斎宮跡が同緯度に並んでいるからです。
太陽は始祖王墓の真東(まひがし)、伊勢神宮の彼方から昇ります。明確に太陽と鏡を意識して斎宮の場所を選んだことが解ります。
12.山の神
天武が創った神器の鏡は、太陽神のみならずもう一つの神を象徴していました。生死を司り、豊穣をもたらす山の神です。山の神の象徴は蛇。「カガミ」の「カカ」は蛇の古語。「ミ」は見、もしくは身。鏡は蛇神を映すもの、山の神の象徴でもあったのです。
この山の神信仰は弥生時代に始まるもので、最初の出雲系王朝にも、その前の唐古鍵(からこかぎ)遺跡を残した人々にも共通したものでした。2番目の崇神王朝も持っていたはずです。天武は鏡と共に山の神信仰も再生したのです(第8話「鏡を割った思想」2010年6月)。
天武は山の神を神話と歴史に織り込みましたが、後に古事記、日本書紀が編纂される時にその記述は削除されてしまいます。意図的であったかどうかは解りませんが、次の箇所には明確に残りました。
天武はアメノムラクモの剣を創造し、その実在感を高める為にヤマトタケルの東国遠征のくだりを挿入します。そこに山の神も盛り込んだのです。景行天皇の世(4世紀前半)、ヤマトタケルはアメノムラクモの剣を持ち東国遠征に向かいます。
その剣で草をないで危難を切り抜けたので草薙剣(クサナギのつるぎ)と呼ばれるようになります。その後、ヤマトタケルは伊吹山の神との戦いで消耗し、これが死につながります。
<後編>へ続く
写真1:石上神宮楼門(重要文化財)
写真2:出雲建雄神社
写真3:石上神宮拝殿(国宝)