私は第38話「蘇我王朝と物部の血」で舒明天皇と皇極天皇は同母兄妹間という異例な結婚をした理由を、物部の血の濃さを維持する為ではないかと推定しました。その続きを追ってみましょう。
1.繰り返される近親婚
舒明天皇と皇極天皇は蘇我の血が1/2、物部が1/4。その間に生まれた二人の兄弟・天智天皇と天武天皇もまた同じです。
天武天皇は天智の娘・持統天皇を娶ります。天智から見れば弟と娘の関係です。濃厚な近親婚です。二人の間には、草壁皇子が生まれます。
草壁皇子は天智の娘・元明天皇と結婚します。天智から見れば孫と娘の結婚です。ここでも濃厚な近親婚が行われます。その間に生まれた文武天皇の物部の血は5/32に下がります。
たかが5/32、されど5/32。舒明と皇極から4世代後にもかかわらず物部の血は16%も残ったのです。これを意図的と言わずして何と言うのでしょう。
2.直系継承
継体天皇に始まる蘇我王朝は、兄弟継承を行ってきました。
継体天皇(26代)の次世代は三人の子が次々と天皇を継承します。安閑天皇(27代)、宣化天皇(28代)、欽明天皇(29代)です。
三世代目は欽明天皇の四子が次々と天皇を担います。敏達天皇(30代)、用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)です。
四世代目は推古天皇の世が36年の長期にわたりましたので継承の機会は失われました。
五世代目は敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を父とする同母三兄弟が即位します。舒明天皇(34代)、皇極天皇(35代。重祚して37代斉明天皇)、孝徳天皇(36代)です。
日本書紀は皇極天皇を「皇祖母尊」と呼び、皇極天皇を天照(アマテラス)大神に擬して特別な地位に置きます。そして孫の大田皇女と建皇子は「皇孫」とします。この二人の父親は天智天皇。
即ち、天智天皇の子孫を皇祖神アマテラスに直結した神聖な系列に置く意図がうかがえます。皇極天皇-天智天皇の後、持統天皇-草壁皇子-文武天皇という直系継承の流れができました。
蘇我氏でもなく物部氏でもない、その双方の血を受けた混血の血筋が意識され、それを代々受け継ぐべき血脈として、氏族から独立した「天皇家」というものが確立したと見ることができます。
3.藤原不比等の血
天智天皇は、その妃・鏡姫王を中臣鎌足に下賜し、鎌足は正妻とします。鏡姫王は、王が付いていることから明らかなように王女、即ち皇族です。皇族でない者が王女を娶れるのでしょうか。中臣鎌足は王女を下賜されており、特異な事情があったと推測されます。
鏡姫王はやがて男児を生みます。藤原不比等(ふひと)です。不比等は娘を文武天皇に嫁がせます。更に、生まれた子、後の聖武天皇にも娘を嫁がせます。光明皇后です。
二代続けて天皇に娘を嫁がせ、濃厚な近親婚をさせているのです。不比等は自身の血を濃厚に天皇家に入れたのです。
4.藤原家の誕生
藤原不比等とは何者なのでしょう。父は中臣鎌足(なかとみかまたり)。先ずは中臣家の血筋を明らかにしましょう。
第1話「死んだはずだよおトミさん」https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20090807/で中臣(なかとみ)氏は、3世紀前半に奈良盆地に入り王朝を建てた出雲族・トミ王家の後裔であると私は推測しました。
出雲族も太陽神を祀りました。ただ、神の名はニギハヤヒと呼んでいました。出雲王朝の末裔は、同じく太陽神を信仰する神武天皇に滅ぼされた後も祭祀継続を許されました。
祭祀の場所は両者が争った戦場・日下(くさか。東大阪市日下町)の近く、枚岡(ひらおか)神社です。「くさか」の「くさ」は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の「くさ」同様、猛々しいという意味です。「か」は太陽を意味します。そして枚岡神社の地名は出雲井町です。
私は出雲王朝が太陽神を祀る神聖な場所であったからこそ戦場になったと考えています。
今日、枚岡神社に祀る神は太陽神ニギハヤヒそのものではなく、祭祀を行う王族の祖先アメノコヤネです。太陽神が二つあるのは不都合ですから形を変える必要があったのでしょう。中臣鎌足は、このアメノコヤネの祭祀を司る中臣家の主です。
既に滅ぼされた王朝の末裔ですから地位が高い訳はありません。その鎌足に天智天皇が妃・鏡姫王を下賜したというのです。鎌足は死の間際に天智天皇から藤原の姓を賜ります。藤原氏の氏神はアメノコヤネで、枚岡神社から分祀して春日大社(奈良市春日野町)に祀っています。
日下(草香)と春日の地名について、椎野禎文氏は著書「日本古代の神話的観想」の中で、「KUSAKAはKASUGAと母音交代と濁音化で変わっているが同じである。春日山の漢字表記は冬至に復活する太陽信仰に基づくのだろう。中臣氏が草香山山麓の枚岡神社から春日山麓に信仰の場を移した」としています。
5.影の天皇家
藤原不比等は、天智天皇の子であったという説があります。鏡姫王は既に天智の子を孕(はら)んでおり、それを知った上で下賜したというのです。
天智天皇の死の直後に起こった壬申の乱(じんしんのらん)で、大海人皇子(おおあまのみこ。即位して天武天皇)は天智の子である弘文天皇(大友皇子)を自決させ、天武天皇の世になります。天武に気付かれず鏡姫王の子は無事成長し藤原不比等と名乗ります。
天智は忠臣・中臣鎌足を使って自分の血を残すことに成功したことになります。そして中臣氏が不比等を当主に据えることで中臣家と天智天皇の血筋が合体し、生まれたのが藤原家という訳です。
私は不比等が天智の子であるという説を信じます。その理由は何よりも娘を文武天皇、そしてその子の聖武天皇に嫁がせたことに尽きます。藤原家は天智天皇の血を受け継ぐ、いわば影の天皇家として、天皇家の血脈維持に寄与していると考えるのが素直です。
天武亡き後、夫人を即位させ持統天皇としたのも、持統政権を支えたのも、不比等であったように思えてならないのです。
最後に物部の血の比率を通して天皇家の継承を見ておきましょう。舒明天皇(34代)から文武天皇(42代)に至るまで物部の血は可能な限り濃厚に受け継がれ、文武天皇は5/32、約16%であることを最初に述べました。
そして、不比等に流れる物部の血は1/8。その娘は1/16。この血を入れることにより聖武天皇7/64(11%)、孝謙天皇11/128(9%)と、物部の血は維持されたことになります。
第38話終わり
写真1:明日香と難波を結ぶ竹内街道(大阪府南河内郡太子町)
写真2:36代孝徳天皇陵(大阪府南河内郡太子町)
写真3:春日大社一之鳥居
写真4:天武・持統天皇陵(高市郡明日香村)
写真5:45代聖武天皇陵(奈良市法蓮町)