古事記・日本書紀(記紀)は漢文で書かれています。それを日本語に読み下すに当たり、「物部」を天皇の形容には「もののふ」、豪族の名称には「もののべ」と読み分けた誤りを私は指摘しました。
「物部」を天皇の形容に使う以上、物部氏は応神天皇に始まる5世紀の天皇家そのものと言えます。
越前から近江にかけて勢力を持っていた継体天皇がヤマト中心部に入り、507年に河内国樟葉宮(くずはのみや)で即位します。継体天皇はその約20年後、大和国に入ります。
ちょうどこの頃から蘇我氏が天皇家と姻戚関係を結ぶ最有力豪族として記紀に登場します。物部氏と対比して考えれば、継体天皇に始まる天皇家は蘇我氏そのものであったと考えざるを得ません。
継体天皇が大和国に入るまで20年も要したのは、その武力が圧倒的なものではなかったことを暗示しています。又、継体天皇は物部氏の娘を娶っており、その間にできた子が欽明天皇として即位します。前王朝・物部の力が残っており、蘇我王朝は妥協を強いられたのでしょう。
私は第36話「藤ノ木古墳」https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20130614/の中で被葬者を推定するにあたり蘇我と物部の血の比率を用いました。これにより殺された者と殺された理由が浮かび上がってきました。同じ手法で蘇我王朝を追ってみましょう。
1.継体天皇の次世代
継体は第26代天皇です。蘇我王朝の始祖ですから蘇我の血が100%です。次の世代は、継体天皇の三人の子が次々と天皇を継承します。その内、安閑天皇(27代)と宣化天皇(28代)の母は尾張連草香の娘。即ち地方豪族の娘なので物部の血は零。この二人の天皇は蘇我と物部の対比で考える場合、蘇我の血は100%と考えて良いでしょう。
欽明天皇(29代)は、母が物部王朝の仁賢天皇の娘ですから、蘇我と物部の比率は50%ずつです。
日本書紀は継体天皇の崩御を継体天皇25年(531年)にした根拠として『百済本記』(現存せず)に「日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳」(辛亥年(531年)に天皇、太子、皇子ともに亡くなった)と書かれていることを挙げています。
継体天皇は皇子と共に殺されたのでしょう。続く安閑、宣化二代の8年間は物部氏と血で血を争う抗争があったように思われます。和解の条件として蘇我と物部の血を半々に引く欽明天皇が選ばれ決着したと考えれば辻つまが合います。欽明天皇の即位は539年です。
2.三世代目
欽明天皇の四子が次々と天皇を担います。
敏達天皇(30代)は、母が石姫皇女。父・欽明天皇は、蘇我と物部のハーフ。母・石姫皇女は、継体天皇の皇子(蘇我)と仁賢天皇(物部)の娘の間に生まれており、やはりハーフ。従って、敏達天皇もハーフ。蘇我・物部の権力争いの中で、バランスを取ったと考えられます。欽明天皇即位から敏達天皇崩御まで46年間、均衡が保たれます。
用明天皇(31代)は585年に即位します。母は、蘇我堅塩媛で蘇我100%。従って、用明天皇の蘇我の血は3/4。ここで蘇我にバランスが傾きました。反撃の機会を狙っていたであろう物部側に対し、蘇我側から決定的な打撃が加えられます。
587年、天皇の死のあと、藤ノ木古墳に葬られた穴穂部皇子(あなほべのみこ)、物部守屋などが殺され、物部氏は没落します。因みに聖徳太子は用明天皇の子です。
崇峻天皇(32代)の母は、蘇我小姉君で蘇我100%。従って、蘇我の血はやはり3/4。崇峻天皇は穴穂部皇子の同母兄弟です。
穴穂部皇子は物部に近かった為、殺されたと推測されるところ、崇峻天皇も物部に近かったのか、592年に暗殺されます。崇峻は生年も記紀に記録されておらず、又暗殺当日に葬られるという異様さ。
『先代旧事本記』では夫人の布都(ふつ)姫は物部守屋の妹と書かれています(「布都」は物部氏ゆかりの石上神宮に祀る神と同名)。そうであれば、布都姫との間に子ができれば物部の血は5/8に高まります。それが皇位を狙えば蘇我家にとって脅威です。おそらく布都姫も同時に殺されたことでしょう。
推古天皇(33代)は用明天皇の同母兄妹。従って、蘇我の血は3/4。36年に及ぶ長期政権で蘇我王朝は安定します。ただこの間に次の世代の皇位継承者が死に絶えたらしく、一世代飛んで五世代目に継承されます。
3.五世代目
敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を父とする同母三兄弟が即位します。
先ずは四世代目、押坂彦人大兄の考察。父・敏達天皇は、蘇我と物部のハーフです。母は、息長真手王の娘・広姫。息長氏は継体天皇の本拠と考えられる滋賀県に縁があり、「王」が付くところから蘇我系皇族と推測します。従って、蘇我王家の血は3/4、物部は1/4です。
そして五世代目。舒明天皇(34代)の母は、糠手姫皇女。皇女の父は敏達天皇、母は伊勢大鹿首小熊という地方豪族の娘。敏達天皇はハーフですから皇女は蘇我1/4、物部1/4。従って、舒明天皇は蘇我1/2、物部1/4。皇極天皇(35代。重祚して37代斉明天皇)、孝徳天皇(36代)も同母姉弟なので同じです。
舒明天皇と皇極天皇は結婚しますが、同母兄妹間の結婚は先進国・中国では儒教的倫理観から忌避されていました。先進国の仲間入りをしようと初めて国の正史・日本書紀の編纂を進め、おまけに先進国の言語・漢文で書いているのに、天皇が同母兄妹で結婚したと書けば後進国であることを宣伝してるようなものです。
そこでその事実を隠す為に日本書紀では皇極天皇と孝徳天皇姉弟を一世代下げて六世代目にしています。こうすることにより舒明・皇極夫妻は叔父・姪の関係になります。なぜこのような事が解るかと言えば、日本書紀の8年前に完成した古事記には舒明天皇の同母妹弟として中津王(皇極天皇)と多良王(孝徳天皇とみられる)が記載されているからです。
五世代目の血は蘇我1/2、物部1/4。三世代目に比べ蘇我の比率が下がっていますが、物部没落の後ですから、物部の脅威は去っています。代わりに蘇我一族の内輪もめが始まります。
4.大化改新
本来、継体天皇から続く王家が蘇我本家のはずですが、物部との妥協の結果、王家には物部の血が入りました。蘇我は本宗家と王家が並び立つ関係になっていました。或いは本宗家が王家を支配する関係だったのかもしれません。
なぜなら蘇我王朝二世代目の欽明天皇陵が全長140メートルであるのに対し、すぐ北側に同時期に造られた全長318メートルの圧倒的な規模の前方後円墳があるからです。この古墳は見瀬丸山古墳と呼ばれ、奈良県最大。全国では6位の規模です。
この墓に葬られたのは蘇我稲目と考えざるを得ないのです。
血で血を洗う抗争を続けた物部というライバルがなくなってしまえば、物部の血が入らない純血の蘇我本宗家の地位が更に高まるはずです。そういった場合、物部の血を引く王家の者にかえって物部の血を強く意識させることになりがちです。
皇極天皇2年(645年)6月、乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれる事件が起こり、蘇我蝦夷、蘇我入鹿など蘇我本宗家が滅ぼされます。舒明天皇と蘇我馬子の娘の間に生まれた古人大兄も事件後殺されます。
乙巳の変の切り込み隊長を務め、その後古人大兄を殺した天智天皇は、同母兄妹の舒明・皇極天皇の間の子で六世代目。血は変わらず蘇我1/2、物部1/4です。
5.濃厚な近親婚
蘇我入鹿を斬った中大兄皇子はもとより皇極天皇の脳裏には蘇我本宗家から独立した「王家」(天皇家)の概念が明確にあったはずです。王家を特徴付ける最大の要素は物部の血を引いていることでした。
舒明と皇極が同母兄妹間という異例な結婚をしたのは物部の血の濃さを維持する為だったに違いありません。それ以外に物部の血を濃く持つ王位継承者はいませんでした。
更に舒明と皇極の同母弟・孝徳天皇は、舒明と皇極の間に生まれた間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后にします。ここまで濃厚な近親婚が続くのは尋常ではありません。
おまけに天智天皇の同母弟・天武天皇は天智の4人の娘を妻にします。やはり王家の血、物部の血を明確に意識していたのです。
6.白村江の戦い
660年の百済滅亡後、百済復興を目指して朝鮮半島に出兵する決断をしたのは皇極天皇が重祚(ちょうそ。重ねて天皇に即位すること)した斉明天皇、実行した最高権力者は天智天皇でした。
物部王朝は百済から大量の秦氏(はたし)移民を受け入れました。初代応神天皇はホムタワケ、即ち秦王と名乗りました。朝鮮半島に度々出兵し、百済を征服したことは好太王碑に書かれています。
その後も百済とは友好関係にあり、日本の特色である前方後円墳が幾つも造られます。百済の王族は物部王家と姻戚関係にあったと私は考えています。
(第24話「物部氏と百済」https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20120404/)
天智天皇は物部の血を強く意識するが故に親百済であり、国運を賭けて出兵したのではないでしょうか。
物部は偉大でした。「鉄は国家なり」。秦氏の技術を導入して鉄製農具を普及させて生産性を上げ、ヤマトの国力を一気に高めました。「仁徳天皇陵」といった世界最大の墓も造りました。
天智は、偉大な物部の血を引くからこそ物部王朝の正統な後継者であり、先進国・中国に対抗できる立派なヤマトの国を造る指導者たり得ると考えていたに違いありません。
ともあれ天智天皇の系統が今日まで続き、天皇家には蘇我と物部の血が何れも受け継がれているのです。
第38話終わり
写真1:32代崇峻天皇陵(桜井市倉橋金福寺跡)
写真2:赤坂天王山古墳(崇峻天皇陵の1.7km北東。実際の崇峻天皇陵とみられる)
写真3:29代欽明天皇陵(明日香村平田。前方後円墳)
写真4:見瀬丸山古墳(橿原市見瀬町。奈良県最大の前方後円墳。蘇我稲目墓と推定)
写真5:石舞台(明日香村。蘇我馬子墓と推定)