中国では古代より月と太陽の観測が精密に行われ、春秋戦国時代(前770-前221)には正確な暦が作られていました。その暦は新月から始まる月の満ち欠けの一巡を月とします。12ヶ月で一年。
平均三十三ヶ月に一度、閏月(うるうづき)を入れることで太陽が一巡する一年との誤差を修正します。そして太陽の運行に基づいて訪れる実際の季節に合わせる為に二十四節気を加えました。
このような暦を太陰太陽暦と言いますが、日本は国の形ができ始めた頃からそのままの形で受け入れます。
朝廷が作り、頒布した暦を具注暦(ぐちゅうれき)と言いますが、そこには吉凶判断のための註(注)が加えられました。吉凶判断と言えば、今日我々が使うカレンダーにも大安、仏滅など六曜が書かれ、伝統は脈々と受け継がれています。
「暦ものがたり」(岡田芳朗著 角川ソフィア文庫)の助けを借りて六曜がカレンダーに書かれるに到った道筋をたどってみましょう。以下、引用は同書からのものです。
1.奈良時代
「正倉院所蔵の儀鳳暦時代の具注暦も、前記各所出土の大衍暦によるものも、いずれも多数の陰陽五行説的な暦註が記載されており、これが社会生活全般を支配拘束していたのである。
大陸文化の貴族階級への普及と中国思想の浸透によって、具注暦に記載された諸暦註の影響力は次第に増強され、これに拘泥される傾向が強くなってくると、その弊害が顕著になってきた。
筆者の考えでは怨霊思想なども本来中国のもので、陰陽五行思想あるいは道教的信仰の影響で呪詛などの風習が広まるにしたがって次第に人々の関心を集めるようになり、奈良朝末に至って一つのパターンが形成されたものであろう。」(二章 暦と政治)
2.平安時代
平安京に遷都した桓武天皇の後を継いだ平城(へいぜい)天皇は、迷信や神秘的なものの弊害を嫌い、暦註を禁じます。ところが平安時代は天台宗、真言宗という密教が朝廷の保護を受け流行しますので、神秘的なものが真実の淵源にあると考えられるようになります。
更に藤原氏の摂関政治が始まると、政治は儀式化して典礼や前例に頼るようになります。暦註に基づいて吉凶を判断した上で行ったことが無事に終わると、暦註を意識することが行為の前提となります。
暦註に基づいて判断し行ったことが失敗に終わったとしても、怨霊など他に原因を求めるようになります。暦註は復活し、一層重視されました。
例えば貴族の一日。朝起きて、暦を見て日の吉凶を知ります。「次に粥を服す。次に頭を梳(くしけづ)り(三ヶ日に一度梳るべし。日々は梳らず)、次に手足の甲(つめ)を除け(丑の日に手の甲(つめ)を除き、寅の日に足の甲を除く)」(御堂関白記)となります。
丑(うし)、寅(とら)というのは、十二支を順に日に振ったもので、ようするに十二日に一回めぐってくるその干支の日に爪を切るというのです。切り忘れると二十四日間爪を伸ばし続けることになります。
入浴についても寅、辰、午、戌、亥の日は避け、朔日(ついたち)と18日は悪い日、他にも一ヶ月に一度悪い日があり、入浴可能日は半分になりました。
「貴族の一日の生活は暦を見て始り暦に従って行動し、暦によって終るといってよいほどであって、貴族にとって具注暦は必要欠くべからざるものであった。しかも、暦註は私人の生活を律するだけでなく、儀礼化した朝廷の会議・儀式を開催すべき日時や方位を左右し、軍兵の出陣の日時方位まで影響を与えたのであった。」(五章 平安貴族と暦)
3.江戸時代
「貞享元年(1684)に平安時代から延々と八百二十余年にわたって用いられてきた宣名暦が廃され、一たんは明の大統暦が採用されたが実施をみないうちに直ちに安井算哲(渋川春海)の「大和暦」が採用になって「貞享暦」と命名された。
貞享の改暦は初めて日本人の編纂した歴方が採用になった暦学史上の大事件であるとともに、徳川時代における一連の改暦の最初のものとして歴史的意義の深いものがある。」(七章 貞享の改暦余談)
毎年の暦は幕府の天文方で作られ、それに基づいて出版許可を得た各地の版元が暦を印刷しました。版元によってデザインは異なるものの、暦の内容は統一されたのです。この統一された暦にはやはり陰陽道に基づく暦註が加えられていました。
4.六曜
江戸時代、民間で日の吉凶を占う六曜が生まれました。六曜は陰陽道のように学問的体系を持ったものではなく、少しずつ変化し、幕末に今の漢字表記になりますが、各々の意味も読み方も多様です。
もっぱら勝負事や投機的な取引に用いられたようで、暦に印刷されることはありませんでした。
先勝(せんしょう、せんかち)
友引(ともびき、ゆういん)
先負(せんぶ、せんぷ、せんまけ)
仏滅(ぶつめつ)
大安(たいあん、だいあん)
赤口(しゃっこう、しゃっく、せきこう、しゃくくち、じゃっこう、せきぐち)
「『ゆういん』を友引と書いた後に、友を引くという字面に引かれて解釈が出来てしまった結果、ゆういんにもどすことができなくなってしまったのであろう。
仏滅も空亡・物滅以来の解釈に新しく『仏』にとらわれた解釈が加えられてしまった。『神仏をいのるによし』、『凶仏事によし』、『仏事はよし』といった文言が明治以後の民間暦に散見している。
典拠のない占日法だけに、六曜の解釈は千差万別というほどではなくとも、まことにまちまちで統一性がない。」(十章 六曜の履歴)
5.太陽暦
「古来頒暦には純粋に暦学的な要素の他に数十項目に及ぶ陰陽道的な暦註が記載されており、これに対して江戸時代には儒教的合理主義の立場から批判が加えられていた。」(十一章 太陽暦の採用)
明治維新政府は明治6年から太陽暦に移行し、一切の迷信的暦註を排除しました。正規の暦(本暦、略本暦)は伊勢神宮が頒布を独占しましたが、一枚刷りの略暦は検閲を条件に自由化されました。
これらには迷信的暦註を書くことは許されません。おまけに大正時代になると、併記されていた旧暦の日付も正規の暦から消えました。
暦を見て日の吉凶を占う習慣は、庶民生活の一部と言って良いほど深く根付いていました。おまけに旧暦の日付に基づいて年間の行事を行う習慣を簡単に変える訳には行きません。
そこで、太陽暦の日付に加えて旧暦の日付、陰陽道の暦註が書かれた暦が検閲の目を盗んで発行されます。摘発されては消え、また現れますのでおばけ暦と呼ばれます。明治から大正にかけて庶民はもっぱらこのおばけ暦に頼り、利用するようになりました。
このおばけ暦に六曜、九星、三隣亡(以下、六曜等)が加えられたのです。
陰陽道は廃れましたが、六曜等は庶民に広く行き渡り、戦後の高度経済成長期から流行するカレンダーにも印刷されるまでになり、定着しました。
六曜は旧暦の月毎、日付に機械的に割り振られます。1,7月は先勝、2,8月は友引、3,9月は先負、4,10月は仏滅、5,11月は大安、6,12月は赤口からローテーションが始まります。こうしますと、例えば昭和43年4月28日は旧暦では4月1日で仏滅です。
この日生まれの人が旧暦で誕生祝いをする限り一生仏滅ですが、新暦日付上は固定化することはありません。六曜は簡単な上に好都合な占日法だったのです。
6.2033年問題
日本国は既に旧暦の編纂をやめていますので、太陽暦が採用されるまで使われていた天保暦に従って旧暦日付を決め、それに六曜を割り振っています。
ところが2033年は天保暦では解決出来ない事態が起こります(太陽の運行に基づく二十四節気の秋分を含む月を8月、冬至を含む月を11月にすべきところ、2033年にはその間に一つの月の満ち欠けしかない。更に翌年2月までの間、閏月を置く位置が決まらない)。
カレンダー製造業者の考え方によって何月かを決めることになり、それに基づいて割り振られる六曜はまちまちになり、例えば新郎が使うカレンダーが大安であっても新婦のものは仏滅ということがあり得ます。
六曜を信じる限り吉凶を合わせる為に、互いの親族は統一したカレンダーを購入する必要があります。このようにカレンダーによって日の吉凶が決まるなら、複数種類のカレンダーを購入する人も出てくるはずです。
中国では現在も旧暦を併用しており、伝統行事は旧暦に基づいて決められます。2033年の旧暦日付は中国の暦に従うというのも一手ですが、それを嫌う業者も出てきそうです。さて、どうするか。そもそも根拠のない六曜を使うこと自体が問題ではないでしょうか。
第37話終わり
写真1:伏見稲荷大社稲荷暦表紙
写真2:稲荷暦平成25年7月(六曜が書かれている)
写真3:2007年早稲田カレンダー(六曜が書かれている)
写真4:2011年早稲田カレンダー(六曜が消えた)