奥野正男氏によると、砂鉄などチタン分の多いものは高温でないと還元できないが、褐鉄鉱を原料として密閉式の炉内に木炭や原料を入れて点火し、送風をつづけると、半溶解状の海綿鉄が得られる。
この中から良質な部分をとりだして加熱・鍛打をくりかえして純鉄を得ることができるというものである。(中略)褐鉄鉱は900〜1000度の低温でも還元できるからである。
すでに青銅器の鋳造を行って、精度の高い銅鐸さえも製作していた弥生時代人であるから、当然おこないえたことは間違いない。
ただ残念なことは、弥生時代のそうした鉄製品の遺物が発見されていないことであるが、それは、ひとつには砂鉄より精錬した鉄製品よりも純度が低いため、酸化腐食する度合いも早く、形態を遺していないからにほかならない。(中略)
渡来系技術者によって砂鉄による精錬の方法を習得したことにより、弥生時代は終焉し、古墳時代に移行した。
真弓常忠著「古代の鉄と神々」(1997年学生社)より
1.葦原中国
真弓氏は同書の中で、鉄分の多い水流のある水辺では葦(あし)、茅(かや)、薦(こも)などの根のまわりに褐鉄鉱の塊ができ、やがて植物が枯れ、褐鉄鉱の中空の固まりだけが残るとします。
中空の固まりの中には小片が混じるものがあり、それを振ると音がすることから水辺で採れる褐鉄鉱そのものを「スズ」と名付けたであろうことに同氏は気づきます。
果物などがぎっしり実った状態を「すずなり」といいますが、自然界に「すずなり」という状態があってこそ生まれる言葉です。
古事記、日本書紀(以下、記紀)によりますと出雲の別名は、葦原中国(あしはらなかつくに)です。この「葦原」は褐鉄鉱が生成しやすい場所です。褐鉄鉱を鉄の主原料としていた弥生時代においては「鉄資源の豊富な国」を意味していたに違いありません。
やがて偉大なる大国主(おおくにぬし)の下、砂鉄による新たな製鉄技術を得た出雲の国は栄えます。「鉄は国家なり」は、弥生時代にも通じる言葉だったのです。
2.鉄と国の始まり
真弓氏は、渡来系技術者による砂鉄精錬の開始が古墳時代の幕を開いたことを指摘しています。
鉄器の普及は当時の主食・米の生産性を一気に高めました。鉄は、鍬(くわ)先になり田を深く耕せるようになります。稲の根は深く張り、多くの収穫をもたらしました。
収穫時、それまでの石包丁による穂先刈りに替えて、鎌で根本近くから刈り取ります。翌年深く耕された田に種籾が播かれます。直播きです。時代を経ると、別に育てた苗を植えるようになります。
田植えの始まりです。牛や馬に引かせる鋤(すき)の普及は深耕に役立つのみならず開墾を容易にしました。水田が拡がり、畑の面積が拡がりました。食料生産の拡大につれ人口密度が高まっていきました。
集約的な食料生産は職業の分化を促し、複雑な社会、そして国を生み出しました。国は大きくなり、王の権力は高まり、王墓は大型化していったのです。
3.出雲の国
島根県出雲市役所の南東2キロに広がる西谷丘陵上には弥生時代末期、2世紀末から3世紀にかけて造られた古墳群があります。その内、2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は一辺30メートル以上もある方墳で、この地方の王墓とみられます。
何れも四隅(よすみ)が突出しており、四隅突出型古墳と呼ばれます。この時代としては際立った規模の古墳を連続して造れたのですから、出雲では他の地域より一足早く渡来系技術者による砂鉄精錬が始まったことを物語ります。
記紀によりますと少彦名(すくなびこな)は海の彼方から出雲にやってきて、大国主を助けて葦原中国を平定し、やがて海に去って行きます。少彦名は、製鉄技術者を伴ってやってきた渡来人を象徴しているようです。
少彦名はなぜ去ったのでしょう。それは3世紀の訪れと共に気候が地球規模で寒冷化し、もはや出雲が豊かな国ではなくなったからです。中国大陸では220年に漢帝国が滅び、三国が鼎立する分裂時代に入ります。
日本海側の出雲も稲が充分実らない程の寒冷化が襲ったはずです。鳥取県西部の妻木晩田(むきばんだ)遺跡は3世紀に入るなりそこにあった大規模な集落を放棄したことを示します。西谷丘陵では3世紀初旬を過ぎると、際立った規模の古墳が造られることはありませんでした。
4.出雲からヤマトへ
出雲の人々はどこへ行ったのでしょう。それは大和でした。
桜井市街の東、円錐形の三輪山の麓に大神神社(おおみわじんじゃ)があり、三輪山を神体とします。記紀によりますと、ここに祀られた神の名は、大国主の別名である大物主(おおものぬし)とされました。
その境内、北側にある狭井神社(さいじんじゃ)の祭神は、大神荒魂、大物主、ヒメタタライスズ姫、セヤタタラ姫、事代主です。大物主は大国主の別名。事代主は大国主の息子です。
そして二柱の姫の名は何れも「タタラ」(製鉄炉)を含みます。おまけに「狭井」は、鉄の古語「サヒ」から来ていると見られ、サヒ神社。即ち鉄神社のようです。何れも製鉄先進地・出雲に繋がります。
更に記紀の記述を見ますと、セヤタタラ姫と大物主の間に生まれたヒメタタライスズ姫を初代天皇・神武(じんむ)が娶ります。これは何を意味するのでしょう。
記紀に描かれた神話時代の中心は出雲です。出雲の人々は栄え、3世紀前半に大和に入り、三輪山に大国主を祀ります。記紀は歴史時代の記述に入り、九州から東征してきた神武が大和の地に入り、初代天皇になったとします。
その天皇家が現代にまで続くことになります。
3世紀半ばを過ぎた頃、奈良県桜井市に巨大な前方後円墳の造成が始まります。食料生産効率が高まり、国家が形成され、王墓の造営に多くの労働力を振り向ける余裕のある社会が誕生したことを物語ります。
かつての出雲を超える鉄器の普及を推定することができます。いわゆる「大和朝廷」の成立です。とするならば、出雲勢力が大和にやってきた3世紀前半から何十年も経たない内に九州からやってきたヤマトに征服されたことになります。
ヒメタタライスズ姫と神武の結婚は、被征服者出雲から征服者ヤマトへの継承と融和を意識して書かれたのです。
5.穴師坐兵主神社
狭井神社から2キロほど北の、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の付近では鉄滓が発見されています。かつて三輪山北麓一帯で製鉄が行われていました。再び真弓常忠著「古代の鉄と神々」から引用しましょう。
「古墳時代の鉄製品は、五世紀初頭を中心とした約一世紀間に構築された畿内の大古墳にもっとも多く副葬されている。それらの鉄製品が渡来系技術者集団、すなわち、韓鍛冶の指導によって製作されたことは疑いない。
彼らによって古墳時代の生産はさらにいちだんの進歩を示したであろう。それをうかがわしめるのが応神・仁徳朝における河内を中心として進められた大規模な土木工事である。
五世紀代、これだけの土木工事が進められるには絶対に鉄製器具が必要であり、それも舶載の鉄挺を鍛造するのではなく、この需要を賄うにたりる国内生産がなされていなければならず、そのためには、原始的な露天たたらや手吹子のごとき幼稚なたたら炉ではなく、かなり進んだ製鉄技術があったとしなければならない。
その新しい製鉄技術の担い手が、イタテ神、あるいはアメノヒボコ、または兵主神を奉ずる韓鍛冶であった。」
「兵主」は中国古代の神・蚩尤(しゆう)。武器を発明したとされることから武神として日本に伝わりました。
6.信仰の変遷
弥生時代、三輪山を人の生死・田の豊穣を司る「山の神」とする信仰がありました。「みわやま」の「み」は蛇。「山の神」の信仰は、そのシンボルの蛇と共に今日に受け継がれました。
弥生時代末期の3世紀前半、砂鉄を原料とする製鉄技術を背景に生産力が高まり、人口が増え、勢力を増した出雲の人々がやってきました。三輪山には出雲の神である大国主を祀ります。
出雲は鉄の国。鉄は国家なり。鉄は豊かな農産物、そして豊かな生活物資を生産する基となります。大国主は鉄によってもたらされる「物」を生み出す神「大物主」とされます。大物主は、製鉄神としての性格が濃厚だったはずです。
出雲の人々は、まもなく北九州からやってきたヤマトに征服されます。出雲の製鉄神祭祀に後から来たヤマトの祭祀が交わり、統合の象徴として狭井神社の基になる祭祀が始まりました。
或いは、記紀編纂が始まった8世紀初期、出雲の製鉄技術者の後裔が行っていた大物主の祭祀に出雲・ヤマト継承融和の話を組み込む為に二柱の姫神を加えました。
そして5世紀。再び九州からやってきた新たな勢力がヤマトを征服します。この勢力は、朝鮮半島から移住してきた秦氏など、出雲より一層進んだ製鉄技術を持った人々を伴っていました。
そして大物主とは別に、鉄と武器及びその製造を司る兵主神を祀りました。ただ、出雲系の技術者も残り、新しい技術を使って製鉄を続けたはずです。
8世紀初期、藤原不比等の時代、仏教では寺院にあたる神を祀る専用の建造物「神社」が造られて行きます。「神社」の形を持った大物主と兵主神は、三輪山の麓の極めて近い距離に並存し、今日に至りました。
第29話終わり
写真1:三輪山
写真2:西谷古墳群2号墓突出部(出雲弥生の森)
写真3:狭井神社
写真4:穴師坐兵主神社拝殿
写真5:穴師坐兵主神社本殿