狩猟採集によって高い生産力を誇った集団のなかには、首長社会の段階にまで達したものもあるが、国家の段階にまで達したものは一つとしてない。
国家を形成するに至った集団は、食料生産によって市民を支えることのできた集団だけである。(中略)集約的な食料生産と複雑な社会の出現は、相互に自己触媒の関係にある(中略)
複雑で集権化された社会は、灌漑施設などの公共建造物を構築できることを特徴とする。遠方の社会と交易をおこない、よりよい農具を作るための金属材料を輸入したりすることもできる。
労働がさまざまに分化しているので、家畜を専門に育てる人びとを農民の穀物で養い、彼らが育てた家畜を使役動物として農民にあてがうような配慮もできる。
集権化された社会では、こうしたことが相乗的に作用し、集約的な食料生産が助長され、歴史的に見れば、人口の増加につながっていったのである。
(ジャレド・ダイアモンド著 倉骨彰訳「銃・病原菌・鉄」第14章 平等な社会から集権的な社会へ)
1.王国の形成
紀元前8世紀頃、地球規模で気候の寒冷化が起きます。中国大陸では北方から遊牧民が華北の畑作地帯に南下。華北の畑作農民は作物生育に適した暖かい地を求めて稲作地帯に南下。稲作地帯は南に移動します。
北からの人の移動に押されるように稲作農民の一部は海を渡って日本列島や朝鮮半島南部に移住しました。日本列島に本格的な食料生産時代が訪れます。弥生時代の始まりです。
それから紀元3世紀半ばに至る千年間に稲作地帯は本州北部まで拡がり、各地に首長が支配する集団が形成されていきました。
3世紀後半、奈良県桜井市を中心とした地域にそれまでになかった規模の、前方後円墳と呼ばれる王達の墓が造られていきます。王国を形成できるほどの「集約的な食料生産と複雑な社会の出現」と人口の増加が始まったことが解ります。「国家の段階にまで達した」のです。
2.急激な王権の成長
世界最大の墓は、日本にあります。大阪府堺市にある大仙陵古墳。通称仁徳天皇陵。全長486メートルの前方後円墳。後円部の直径245メートル、高さ36メートル。築造されたのは5世紀前半から半ば。
その少し前、5世紀初頭に造られた誉田山古墳も同程度に巨大です。大仙陵古墳の真東10キロの羽曳野市にあります。通称応神天皇陵。全長420メートル、後円部の直径267メートル、高さは同じ36メートルです。
このような巨大な墓が造られる5世紀、王達は中国の史書にも記録され、ほぼ5世紀全期間にあたる西暦413年から502年まで、讃・珍・済・興・武、五人の王名が確認できます。
この時期、「集約的な食料生産が助長」され、人口が急激に増加し、社会は更に複雑化し、王の権力が増大したのでしょう。奈良県桜井市に大きな前方後円墳ができ始めてから百年余り。
「倭の五王」の時代を迎えるなり唐突に古墳が巨大化し、その造営される中心地も変わります。おそらく4世紀末から5世紀にかけて圧倒的に食料生産力が高まる何かが起きたのです。
ちょうどこの時期、朝鮮半島から中国人の集団・秦氏(はたし)が日本列島に移住して来ます。秦氏がもたらしたものが日本の社会を激変させたに違いありません。
3.新しい穀物
秦氏は紀元前3世紀、秦の時代の中国から朝鮮半島南東部に移住してきた人々です。高いカロリーを大量に生み出せる新しい穀物を持ち込んだことは考えられないでしょうか。中国古代の穀物栽培を検討してみましょう。
「中国古代の国家は、北方の黄河流域を中心にして成立した。そして成立の生産的な基礎をなしたものは畑作であった。そしてそこで作られたものは黍(モチキビ)・稷(ウルチキビ)・粟(アワ)などが多く、これを食物のもっとも重要なものとした。
(中略)稷は粟とならんでもっとも多く、一般民衆の主食物であり、黍はそれよりやや上等の食物とされていた。そして、後漢時代(二世紀)の鄭玄という学者の古典の注釈には「豊年のときは賎しい者といえどもこれを食べる」といっている。
また稗は卑しい食物とされて五穀に入っていない。五穀というのは、麦・稷・黍・麻・豆(『呂史春秋』「審土篇」『礼記』「月令篇」)をさすこともあるし、稷・秫(モチアワ)・豆・麦・稲(『管子』「地員篇」)としているものもある。漢の時代になって、江南地方までがその勢力範囲になると、そこでは稲が多く作られていて、米が主要な食物として登場してくることになるが、秦以前にあって華北で米の作られることは少なかったようである」(宮本常一著「日本文化の形成」)
米は弥生時代から栽培していました。豆もありました。粟(あわ)、稗(ひえ)もありました。
私は子供の頃の水田の様子を思い浮かべました。田植えの前には水田に植えられた麦が黄金色に稔っていました。6月、刈り取りが終わるなり畑に水が引かれ、稲の田植えが始まりました。二毛作です。
二毛作そのものは鎌倉時代以降に普及するものですが、麦の栽培は秦氏が持ち込んだに違いありません。それも大麦だったはずです。
大麦の「大」は、「伝来当時の漢字圏では、比較的容易に殻・フスマ層(種皮、胚芽など)を除去し粒のまま飯・粥として食べることができたオオムギを上質と考えたことを反映している。」(Wikipedia「大麦」)という記述が参考になります。乾燥と寒さに強い大麦は、瞬く間に栽培地域が広がっていったことでしょう。
4.鉄製農具
5世紀以降の遺跡からは、鉄製の農具が出土します。鋤(すき)や鍬(くわ)の先に付ける刃先部分です。
鉄の刃先がなければ畑を耕すのは大変です。やってみれば解りますが、いくら板を薄くしても土を深く耕すことは困難ですし、薄くするほど板が割れ易くなります。鉄の刃先があってこそ、その重量とともに土に深く刺さり、深く耕せるのです。
深く耕せば土に酸素が入り、土が軟らかくなり、根が深く張ります。しっかり張った根から充分な栄養と水を吸収します。穀物の質が上がり、収穫量も断然増えます。
鉄製の鍬と鋤、それに次の項で述べる牛や馬に引かせる鋤の使用で開墾が進み、耕作地が一気に拡大しました。
新しく伝わった大麦、それに大豆などの豆類、粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦、稷(きび)など、土地や気候条件により選択され収穫量が急速に増えていきました。又、用水路を引いて水田を開墾し、稲作面積も拡大していきました。
5.農耕用牛馬
5世紀、牛や馬に引かせる鋤(すき)の使用も始まりました。刃先は鉄製です。人力よりも圧倒的に生産性が高まります。
古事記や日本書紀に記述された朝鮮半島南部の人ツヌガアラシトやアメノヒボコも牛を連れて農村を通りかかりました。秦氏の元の居住地では既に牛を通常耕作に使用していたことを暗示すると共に、これら二人とも日本にやってきたことから、日本への伝来も示しているように思えます。
牛や馬による耕作、農地の開墾は西日本から東日本へとと伝わって行きました。西日本で始まってから三百年後の東京の様子が書かれた次の文章で、当時の状況を知ることができます。
「奈良時代、甲和・仲村・嶋俣の三里で構成されていた大嶋郷は、現在の柴又・奥戸・立石などの地域と推定されています。その遺跡からは、当時を物語る土器などの遺物とともに、牛や馬の顎(あご)の骨や歯などが発見されています。(中略)
本郷遺跡(奥戸二丁目ほか)では、奈良時代のころに使われていた水路から、故意に割って粉ごなにした須恵器の破片とともに、馬の顎の骨や歯などを出土しています。これらは、人為的に埋める際に納められたもので、馬は古録天東遺跡と同様に、頭だけが供えられていたようです。
このほか、鬼塚遺跡(奥戸一丁目ほか)では、井戸に牛の頭が供えられていたり、柴又帝釈天遺跡(柴又七丁目)や正福寺遺跡(奥戸四丁目ほか)では、馬の歯のみを穴に埋めた例もあります。
これらの牛や馬は、農耕を背景に行われた祭礼に供えられたようです。祭礼は、新しく畑をおこすときや豊作祈願、雨乞いなど多様な目的で行われ、土地を耕すなどに使われた大切な牛や馬をささげたのです。
大嶋郷内で、このような牛や馬を供えた儀礼が多いということは、奈良時代以降において農耕が重要な生業活動であったとともに、牛馬の飼育も盛んだったことを裏付けています。最近の研究では、大嶋郷付近に公営の牧場が設置されていたという考えも示されています。」(葛飾区郷土と天文の博物館)
6.稲作の変化
鉄鎌もこの時期から使用が始まりました。それまでは穂先だけを石包丁で切り取るか、しごいて穀粒だけを収穫していました。翌年も同じ株から新しい茎が伸び、或いは株が増え、穂先が出て、その穂先だけを刈るのです。収穫量は年々減少していきます。
鉄鎌があれば収穫時に株ごと刈ることができます。稲藁(いなわら)は牛や馬の餌になりますし、牛糞や馬糞と共に堆肥にされたことでしょう。翌年は先ず5月に苗床を作ります。
6月になると堆肥をまいて田を耕し、水を張って苗を植えます。即ち田植えが始まったのです。かき混ぜられ栄養が補充された柔らかい泥の中で苗はしっかり根を張り、秋に豊かな稔りをもたらしました。
これに伴い水田一枚の面積が大きくなりました。それまでの水田は10平米程度の不揃いな四角形で、それぞれの田に水路が隣接しておらず、畦(あぜ)越しに水を取り入れていました。それが今日のように直線の畦で区切られた広い面積の田になったのです。
水田面積の拡大に伴い、用水路が引かれました。又、用水路を引いて水田を開墾していきました。水田は水位を一定に保つ為に、一枚毎に水平でなければなりません。面積が大きくなるほど水平にするのが難しくなります。
そして灌漑用水を取り込む為に、上流から下流に向かって順番に田の高さを下げて行く必要があります。一枚毎の田の水平、微妙な勾配を持つ水路の建設、その勾配に合わせた一枚一枚の田の高さ調整など、土木技術も秦氏によってもたらされたことが推測されます。
7.偉大なる秦氏
秦氏が酒造りの最新技術を伝えたことは以前、若社長の中国日記「VOL.120 酒造りの神と中国」にて紹介しましたが、こうして見ますと秦氏の偉大さに改めて頭が下がります。
先に引用した「日本文化の形成」の著者・宮本常一氏は秦氏の「ハタ」という読み方は、畑(はた)に通ずることを示唆されています。秦氏が農耕に果たした役割がその通称になった可能性を論じているのです。
秦氏は日本に移住して人口が急増しました。「秦人は六世紀中頃には全国に七〇〇〇戸をこえるほど分布を見ていた。当時は、一戸に十五人は居たと思われるから、人口にすると一〇万人をこえていたと見ていい。」(宮本常一著「日本文化の形成」より)。
我々日本人には少なからず秦氏の血が流れています。秦氏の氏神様は京都市西京区の松尾大社に祭られています。同社の説明には「古来、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造の祖神として格別な尊敬を受けております。」と書かれています。
第27話終わり
写真1:誉田山古墳西側面
写真2:誉田山古墳外濠外堤
写真3:5世紀の鉄製甲冑(黒姫山古墳出土)
写真4:円筒埴輪(黒姫山古墳)
写真5:黒姫山古墳模型(堺市立みはら歴史博物館)