第19話 出雲から大和へ<後編>

投稿日:2011年11月10日

 古事記、日本書紀(以下、記紀)によれば、ある時、海に光が射し幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)神が現れ、その言葉に従って大国主(おおくにぬし)は大和の三諸山(みもろやま。奈良県桜井市三輪山)にその神を祀ります。

 出雲を中心とする葦原中国(あしはらなかつくに)の勢力が大和にまで及んだことを示しています。三輪山の南東際には出雲の地名が今も残ります。そして三輪山の神は大国主の別名である大物主(おおものぬし)とされています。

4.国譲り

 記紀によりますと、大国主は太陽神アマテラスに派遣されたタケミカヅチに国を譲ります。その代償に建ててもらうのが出雲大社です。

 記紀は、日本の歴史を古く見せるために内容を引き伸ばす必要があり、同じ話を3回書いています。

 最初は神話時代の話としてタケミカヅチに譲ったと記し、次に神話と歴史の中間に神武(じんむ)天皇が九州から遠征して大和に入って初代天皇になったと記し、更に第十代崇神(すじん)天皇を現実の初代天皇として描きました。

 何れにせよ、九州から太陽神アマテラスを奉じて東征した勢力が大和から葦原中国を駆逐し、本拠の出雲をも征服したというのです。

 3世紀の後半、奈良県桜井市に巨大な前方後円墳の築造が始まります。九州から東征して来た勢力が大和国を中心として政権を打ち立てたことを示しています。

5.出雲の痕跡

 葦原中国が大和を支配していたとすれば、前方後円墳ができ始める直前の遺跡にその痕跡が残るはずです。奈良盆地は狭く、現在その時期に該当する遺跡は二つ。

 一つ目は田原本町の唐古・鍵(からこかぎ)遺跡。面積は30haと推定され、弥生時代の奈良盆地の中心都市であったことを示しています。三輪山は南東数キロ先に見えます。

 この遺跡からは近畿圏はもちろん、東は天竜川、三河、尾張、美濃、伊勢、伊賀、それに備前の陶器が出土しますが、出雲のものは出土しません。どちらかと言えば備前(岡山)との関係が深そうです。

 おまけにこの遺跡は前編で取り上げた鳥取県の妻木晩田(むきばんだ)遺跡同様、3世紀に入ると急に衰退します。

 もう一つは、桜井市の纏向(まきむく)遺跡。三輪山の裾野にあり、面積は300ha。唐古・鍵遺跡との距離は約2キロ。ほぼ隣り合う位置です。発掘調査が進み、2世紀末に出現し4世紀中頃まで続く政治・祭祀の中心都市であったことが判明しています。

 出土する土器は東海地方のものが半分を占めますが、注目すべきは山陰・北陸のものが17%を占めることです。

 葦原中国は2世紀末に大和に入り、ここに都を築いたように思えます。3世紀後半に九州から来た勢力も引き続きここを都と定めたであろうこともうかがえます。広大な為、その一部が発掘されたにすぎません。今後、徐々に出雲の痕跡が明らかになることでしょう。

6.出雲の祭祀

西谷古墳群3号墓(出雲弥生の森)

 1983(昭和58)年のことです。巨大な四隅突出型古墳のある西谷丘陵から約10キロ東の島根県斐川町で、それまで日本全国で出土した総数を上回る358本もの銅剣が、整然と埋められているのが発見されました。

 更に翌年、数メートル離れた所から銅矛16本、銅鐸6個が発見されたのです。荒神谷(こうじんだに)遺跡と命名され、博物館を含む立派な公園が整備されました。

銅剣出土情況模型(荒神谷博物館)

 青銅製の祭器を埋める理由については鳥居龍蔵博士(1870-1953)の見解が卓抜です。それは、水田稲作が始まった中国長江(揚子江)流域で既に青銅製の祭器が用いられ、祭りが終わると丁寧に地中に埋めて保管したというものです。

銅剣(国宝。荒神谷博物館)

 水田稲作は、紀元前8世紀に訪れる急激な気候寒冷化の時期に、北から押し寄せる難民の圧力に耐えかねた稲作農民が、東へは海を越えて日本列島や朝鮮半島南部に移住すると共に、陸続きの南へも移住し広がって行きました。

 日本や朝鮮半島では青銅製の祭器を用いる習慣そのものが廃れてしまいましたが、南への伝播ルートの中では今も受け継がれています。例えば中国貴州省。

 「ミャオ族では、いまも胴鼓が村の祭りのときに楽器として用いられている。かつては埋納されていたという。」(佐々木孝明著「日本文化の基層を探る」P.99写真説明より)

7.刻印と放置

銅剣に刻まれた×印(荒神谷博物館)

 さて、荒神谷遺跡で発見された祭器ですが、埋めた時期は特定できません。そして二度と掘り出されることはありませんでした。358本の銅剣の内、344本の茎に×印が刻印されていることが気に掛かります。

 「時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられる。」(ウィキペディア「荒神谷遺跡」より)

竪穴式住居骨組(鳥取県むきばんだ史跡公園弥生の館)

 戦に勝った九州勢力が、出雲各地で行われていた祭祀を一律に禁じ、祭器を集めて埋めたのでしょうか。

 1996(平成8)年、荒神谷から山を隔てて3キロ余り、加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見されました。内、13個にも×印が刻印されていました。荒神谷遺跡と関係がありそうです。

 重要な祭器を埋めたまま放置するなど、何か大きな社会変動があったことは間違いありません。

関連地図(筆者作成):
出雲大社●     妻木晩田遺跡
 西谷丘陵●←65km→●←37km→●青谷上寺地遺跡
  荒神谷遺跡●    △高麗山

第19話終わり

写真1:西谷古墳群3号墓(出雲弥生の森)
写真2:銅剣出土情況模型(荒神谷博物館)
写真3:銅剣(国宝。荒神谷博物館)
写真4:銅剣に刻まれた×印(荒神谷博物館)
写真5:竪穴式住居骨組(鳥取県むきばんだ史跡公園弥生の館)