第19話 出雲から大和へ<前編>

投稿日:2011年10月07日

 古事記と日本書紀(以下、記紀)にはいわゆる出雲神話が書かれています。

 因幡(いなば)の白ウサギを助けるのは大国主(おおくにぬし。注)。大国主は海の彼方からやってきた少彦名(すくなびこな)の助けを借りて葦原中国(あしはらなかつくに)を平定します。

 これらの舞台は出雲(島根県東部)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(同東部)ですので、葦原中国はこの一帯のことでしょう。近年の発掘調査で2世紀から3世紀にかけての同国の様子が明らかになってきました。

注:大国主はその名の通り葦原中国の王であるが、国土創造神とも考えられる大己貴(おおあなむち)はじめ大物主(おおものぬし)、八千戈(やちほこ)、大国玉(おおくにたま)、葦原醜男(あしはらのしこお)など多くの名を持つ。記紀の編者は出雲の神々を「大国主」に代表させようとしたものと思われる。

1.都市

精緻な木製品(青谷上寺地遺跡展示館)

 葦原中国の都市と考えられるのが妻木晩田(むきばんだ)遺跡です。

 「今から約2000年~1700年前に栄えた152haにもおよぶ国内最大級の弥生時代の集落です。発見された土器や鉄器、およそ900棟の住居や建物跡、30基以上の墳丘墓の跡は、当時の集落の生活を今に生き生きと伝えています。」
(鳥取県立むきばんだ史跡公園パンフレットより)

 この遺跡は鳥取県西部の大山町にあり、日本海から2キロ離れた丘の上一帯に広がっています。同時期に全ての建物が存在した訳ではありませんが、これだけ大きな集落が丘の上に存在したということは、王に準ずる人が居住した中心都市の一つと考えられます。

 丘の下の平地はもちろん、東西に延びる日本海側の平地には水田や畑が広がり、この集落住民の生活を支える食糧や物資を供給していたことでしょう。

 3世紀に入るとこの集落は衰退します。上記パンフレットには「当時の集落の生活を今に生き生きと伝えています」とありますが、土器その他、生活用具の遺物はあまり残っていません。

 集落を放棄してどこかに移転したものと思われます。北半球では2世紀後半から気候は寒冷化していきます。米の収穫が減り、集落を維持できなくなったのかもしれません。その気候変動の影響で、大陸では220年に漢帝国が滅び、三国時代に入ります。

2.港湾集落

弥生人の脳レプリカ(青谷上寺地遺跡展示館)

 鳥取県倉吉市街と鳥取市街の中間あたり、青谷平野には港湾集落がありました。青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡です。妻木晩田(むきばんだ)遺跡から東に37キロです。

 この遺跡は日本海に臨む入り江にあり、護岸工事の跡や倒壊したまま泥に埋まった建物、大量の生活用具、人骨が発掘されました。泥の中は適度な湿度があり、酸素が遮断されますので、木製品が非常に良い状態で残りました。人骨には脳も残っていました。

 住民の主たる糧は漁業と農業から。骨角製のヤスやモリ、釣り針、石で作られた漁網の錘(おもり)、それに木製の鍬や鋤、石包丁などの農具が出土しました。狩猟も行いました。

 イノシシや鹿の骨がたくさんみつかっています。鉄製の刀子で精緻な木製品も作られました。

西谷古墳群2号墓(出雲弥生の森)

 驚くべきは交易範囲の広さです。北陸、北九州、瀬戸内海沿岸、近畿地方で作られた土器、それに中国・新王朝(紀元8~23年)の貨幣、朝鮮半島で作られた鉄斧などが出土しています。漁港としてのみならず海上交易拠点としても機能していたようです。

 発見された人骨の多くに殺傷痕がありました。中には真っ正面から額に斧を打ち込まれたと思われる女性の頭骨もあります。記紀を読む限り大国主の本拠は出雲のようです。大国主が葦原中国を平定する過程で戦があったのでしょうか。

 この遺跡は3世紀後半、生活道具もそのままに突然放棄されて終末を迎えます。後編に述べますが、九州勢力との戦に敗れたのかもしれません。

3.古墳

四隅突出型墳墓(妻木晩田遺跡)

 島根県出雲市役所の南東2キロに広がる西谷丘陵上には2世紀末から3世紀にかけて造られた古墳群があります。

 その内、2号墓、3号墓、4号墓は一辺30メートル以上もある方墳で、何れも四隅(よすみ)が突出しており、四隅突出型古墳と呼ばれます。このような巨大な墓は葦原中国ではここにしかありません。

 後に大国主が祀られる出雲大社はここから西北10キロに位置します。葦原中国の都はこの近辺に置かれていたように思えます。

妻木晩田遺跡から見る高麗山

 上述の妻木晩田遺跡にある幾つもの古墳は規模が小さいもののやはり四隅突出型です。この祖型は朝鮮半島北部、当時の国名で言えば高句麗に見られますので、葦原中国は朝鮮半島と密接な関係を持っていたことが解ります。

 妻木晩田遺跡南側の孝霊山は、高麗山とも書きます。記紀に書かれた少彦名(すくなびこな)は海の彼方からやってきて、大国主を助けて葦原中国を平定し、やがて海に去って行きます。少彦名は高句麗系渡来人を象徴しているようです。

関連地図(筆者作成):
出雲大社●     妻木晩田遺跡
 西谷丘陵●←65km→●←37km→●青谷上寺地遺跡
  荒神谷遺跡●     △高麗山

第19話<前編>終わり

写真1:精緻な木製品(青谷上寺地遺跡展示館)
写真2:弥生人の脳レプリカ(青谷上寺地遺跡展示館)
写真3:西谷古墳群2号墓(出雲弥生の森)
写真4:四隅突出型墳墓(妻木晩田遺跡)
写真5:妻木晩田遺跡から見る高麗山