宮本常一著「日本文化の形成」。百ページも読み進まない内に、夏について述べた文章が引用されているところに行き当たり、そのまま釘付けになってしまいました。
日本列島は梅雨入りしました。時々訪れる晴れ間からは夏の強い光が射し込みます。今回取り上げる夏は、この夏ではありません。黄河文明最初の王朝・夏(か)です。
「華夏」(かか)という言葉があります。中国を意味する雅語です。「華やかで夏のように盛んな国」という意味ですが、「夏」はもちろん最初の王朝の名から来ているのです。
黄河文明は黄河中流域に発生しましたので、内陸の民族が打ち立てたものと考えられてきました。ところが夏の人々の祖先神は水神としての龍であり、水との深い関わりを示しています。
その違和感をすっきりと解決する岡田英弘氏の説が引用されていたのです。私の心に夏の明るい光が射し込みました。これに近年明らかになった古代気象研究の成果を重ね合わせてみましょう。
1.四千年前の断絶
約一万年前に氷期が終わって地球の気候は暖かくなります。農耕が始まり、やがて都市ができ、文明が始まり、それが高度に発展して現代に至ります。人類社会の変化はこういった一方向の「進歩」で捉えられてきました。
過去の気候の変動が判明するに従って、この一万年の間にも急激な地球規模の寒冷化によって文明が衰退したり、後退したり、時には滅びていることが解ってきました。とりわけ4千2百年前に始まる二百数十年間の寒冷化は地球規模の文明の断絶をもたらしました。
エジプトでは、今日に残る巨大ピラミッドを造営するなど繁栄を極めた古王国時代が終わります。百数十年の混乱期を経て、ナイル川中流のテーベに都を置く中王国時代(第七王朝)が始まります。もはやピラミッドが造られることはありませんでした。
メソポタミアではウル第三王朝が滅び、シュメール文明が終わります。約百年を経て、古バビロニア王国が始まります。
中国では龍山文化の時代が終わって、黄河文明が始まります。
2.寒冷化の中国
龍山文化は、後の黄河文明と同様、黄河中流域がその中心です。その文化を特徴づける黒陶はろくろを使って薄く均質に形作られ、高温で焼かれました。厚さ0.5ミリのものまである、非常に精巧なものでした。
人々は牧畜、それに粟や麦の畑作、水田稲作も行っていました。養蚕と絹織物の製造も行いました。城壁に囲まれた都市も形成しました。青銅器の製造も始めました。文明を目前にしていたのです。
4千2百年前、北半球のどこかで大規模な火山噴火があり、灰が太陽光をさえぎりました。突然訪れた寒冷化で牧草は育たず、北方から遊牧民が南下してきました。穀物は稔らず飢饉が始まりました。住民は文化と共にどこかに消えてしまいました。
シベリア南部からモンゴル高原にかけての草原地帯は寒く、そして乾燥しました。かつての豊かな農業地帯である華北から華中(長江流域)北部にかけての広大な地域は人口の希薄な遊牧地帯になったのです。
噴火から百年後、徐々に気温が回復するにつれ、牧草地帯も拡がり、華北に住む遊牧民の人口も増え始めました。そこにやってきた人々がいました。それが夏人です。
3.岡田英弘著「倭国」1977年、中央公論社より
「夏人は、・・・東南アジア系の原住民の出身で、南方から舟に乗って河川を遡ってきて、秦嶺山脈にぶつかったところで舟を下りて、そこに商業都市を建設し、北方の狩猟民や遊牧民と交易をした。
それが発展して、黄河の南岸の洛陽盆地に首都を置き、支配下の諸都市と水路で連絡する国家にまで成長したもののようである。
その証拠に、歴史時代に実在した夏人の都市は、すべて秦嶺山脈の南麓の舟着き場にある。
河南省杞県には、紀元前445年まで、夏朝の後裔という杞国があったし、同じく河南省禹県は、紀元前1世紀になっても夏人の町として有名だったが、どちらも淮河の支流の上流にあり、ここから舟で南東に下れば、淮河デルタと長江デルタの湖沼と分流のからみ合いを利用して、杭州湾まで内陸を航行することができる。
禹県の西南方の河南省南陽市も、紀元前1世紀にまだ繁栄していた夏人の大商業センターだし、さらに西方の陝西省の漢江渓谷の西端の褒城は、夏の一族の褒国のあったところ・・・。」
以上が宮本常一著「日本文化の形成」に引用されていた文章です。
4.夏王朝
夏王朝の始祖は、禹(う)。黄河の治水に成功し、王になります。前漢の紀元前1世紀に書かれた歴史書「史記」によれば、夏王朝は滅亡まで471年続きました。
最後の王は桀(けつ)。中国では暴君の代名詞とされています。夏の滅亡は、紀元前1600年頃のことです。
次の商王朝の初代王は湯(とう)。代々夏王朝に仕えていた一族です。その始祖・契(せつ)は母が玄鳥の卵を飲んで生まれたとされます。このような卵生説話は、南方のものですから、夏人が南方から来たことを裏付けているようです。
夏の首都がどこにあったかは確定していませんが、河南省洛陽市の二里頭遺跡は、有力候補です。発掘調査の結果、紀元前1900年から前1500年まで四百年間この地に都市があったことが解っています。特筆すべきは、貴族の墓からその信仰をうかがわせる龍の形をした杖が発見されたことです。
2004年10月には更に古い都市の発見が報道されました。場所は二里頭遺跡の南東約80キロ、河南省新密市です。
「新華社電などによると、この遺跡は新密市の東南18・6キロの劉寨鎮新砦村の「新砦城址」で、城址の面積は100万平方メートル以上、外濠、城濠、内濠の三重の濠に囲まれている。
城内からは、宗教的な行事が行われたと思われる大きな建造物の跡や骨器の加工工房が見つかった。土器などの出土品の数量は多くなかったが、精巧に作られていた。
炭素 による測定の結果、新砦遺跡は紀元前2000年~同1900年のものだと分かった。「断代工程」では夏は紀元前2070年に始まったことになっているから、夏王朝の初期の王城であると推定される。」
(『人民中国』特集 姿現した中国最古の王朝の都
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200502/teji-1.htm)
5.航海の民
時代は千年ほど下りますが、春秋時代(紀元前770年から同403年)、「呉越同舟」という故事成語で有名な越の人々は、夏人の後裔を自称していました。越の都は会稽。会稽山には禹の墓があります。
越は、船を操り、交易で栄えた国です。会稽は杭州湾にあり、現在は紹興と呼ばれています。その名の通り紹興酒の主産地です。越は水運を利用して酒を各地に販売し、その財政基盤としていたと私は考えています。
杭州は大運河の起点です。上記、岡田英弘氏の言う杞国、禹県、南陽は内陸の販売拠点ではなかったか。海上を輸送して斉(山東省)や燕(河北省)にも運んだことでしょう。
こうして見ますと、黄河文明を創始したのは東南アジアから中国沿岸にかけて交易を行っていた海の民のようです。その人達が交易の拠点である黄河中流域に植民し、自身の文化を移植し、細々と残った龍山文化の流れを汲み、融合させ、発展させたものが黄河文明の始まりだったのです。夏人の始祖神が水神であったことに納得です。
第15話終わり
写真上:馬踏匈奴石刻(前漢)
写真下:彩絵舞踏俑(前漢)