4.酒造りの技術
中島飛行機が日本の乗用車の源流になったとすれば、日本酒造りの世界では8世紀の中国唐王朝時代の技術が源流になりました。
そこに至るまでの日本の酒造りを概観してみますと、更に千五百年を遡った紀元前8世紀に中国江南地方(揚子江下流域)から稲作が伝わり、弥生時代を迎えるところから始まります。
弥生時代は、水田稲作が日本列島に始まった時代です。江南地方から大量の移民が押し寄せ、それらの人々、即ち弥生人が日本列島に水田稲作をもたらしました。水田稲作社会は漁労採集社会に比べて圧倒的に多くの人口を養えますので、人口密度が高まりました。集落が形成され、集落毎に祭祀が行われ、それに欠かせないものとして酒が造られました。
米を原料とする酒は、米の澱粉を糖化し、アルコール発酵をさせて造ります。糖化には麹カビ、アルコール発酵には酵母菌が必要です。蒸した米を放置すれば空気中に漂う麹カビの胞子が落ち、繁殖を始めます。
布で包み込んで保温すれば容易に麹を作れます。麹を容器に入れ、湯を加えて保温すれば甘酒ができます。そこに酵母菌が落ちて繁殖し、酒になるという訳です。しかし、酒造りに適した優良酵母菌を得るのは運任せのところがありました。
香味の落ちるものができたり、アルコール度数が上がらなかったり、時には雑菌が繁殖し、腐らせてしまったはずです。
5.秦氏の渡来
5世紀、朝鮮半島南東の新羅を経由して秦氏(はたし)と呼ばれる中国系の人々が日本列島に移住してきます。秦氏は中国の先進技術を日本にもたらしました。
秦氏が8世紀初頭に創建した松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)。同社の説明には「古来、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造の祖神として格別な尊敬を受けております」とあります。
秦氏が伝えた多方面の技術の中には、酒造りに関する革新的な技術が含まれていたのでしょう。我々醸造家にとって松尾大社は最も大切な神として今日に至っています。
どのように酒造りが改善されたのか。私は、中国の伝統的な醸造酒である黄酒の製造方法から推測して、同一発酵容器、当時は酒壺ですが、その中で糖化とアルコール発酵を同時に行う、並行複発酵の技術がもたらされたものと推測しています。
6.唐から平城京へ
昨年は、平城京遷都1300年祭が開かれました。710年、奈良盆地南部から北部に都が移されます。それが平城京です。
遣唐使の時代です。世界帝国唐から先進の技術や文化が日本に導入され、酒造りも最新の技術が伝わりました。
平城京には酒造りを専門に行う役所・造酒司(みきのつかさ)が置かれました。夏に醸す礼酒、秋に醸す御井酒、新嘗祭に用いる白酒(しろき)と黒酒(くろき)、冬に醸す御酒など四季を通して酒が造られました。麹と蒸米と水の配合割合など、製造方法が細かく定められました。
旨い酒ができた時の醸造器具には優良な酵母菌が付着しており、年間を通して連続して酒造りをすることで優良酵母を使い続けることができたと私は推測しています。唐の技術で圧倒的に質が向上、或いは安定し、酒の種類も増えたのです。
酒の種類が増えたことは、酵母菌管理技術の幅が拡がり、発酵の安全性が増し、更にそれが中世の技術向上の基礎になったはずです。
7.正暦寺の酒造り
794年、京都に遷都した後も奈良には大寺院が残りました。奈良で酒造りの技術を継承したのはこれらの仏教寺院です。飲酒を禁ずる仏教の戒律からすれば、寺で酒を造ることは不自然に思われるかもしれませんが、神仏習合により寺は神に供える御酒(みき)を造っていたのです。僧坊酒(そうぼうしゅ)と言います。
正暦寺は興福寺の学問所として設立された寺で、平城京の南東角(九条大路・東四坊大路)から東に4キロの山中にあります。「日本酒発祥の地」とされるのは、現代に繋がる二つの技術を確立したことにあります。
一つは優良酵母菌を得る方法。もう一つは酵母菌増殖に合わせて原料を足して行く三段仕込みです。
前者は、栄養のある液を放置して乳酸菌を増殖させ、乳酸菌が作る乳酸で雑菌を殺し、その後に酵母菌を増殖させるものです。後者は、酵母菌の優勢を保つことにより雑菌の増殖を抑える、安全性を高める技術です。
醸造技術は、今流に言えば最先端のバイオテクノロジーです。失敗無く安全に、大量に酒を造る技術が、隆盛を誇った興福寺の学問所で生み出されたのは偶然ではないはずです。
中谷酒造のある大和郡山市番条町は、正暦寺の酒を堺方面に積み出す河川港として整備された集落です。
8.中世の発展
鎌倉時代、鉄製農具が普及し、農業生産性が上がります。余剰米は酒に加工され、酒は庶民が日常飲めるもの、嗜好品になっていきます。
奈良に受け継がれた技術は拡散し、又各地で独自の技術開発もあり、先進地域である畿内やその周辺地域で僧坊酒は量産され、商品として販売されるようになりました。
寺の財源に寄与しますから、規模も拡大して行きます。旨い酒は商品価値が高く、儲かります。競争の中で正暦寺の醸造技術も生み出されたのでしょう。河内(大阪府)の観心寺や金剛寺、越前(福井県)の豊原寺、近江(滋賀県)の百済寺なども評判を高めます。
造り酒屋も生まれます。西日本各地で事業として酒が造られるようになりました。酒は重量物ですから長距離の輸送は不便です。京都など大都市には何百軒という造り酒屋ができました。
奈良は酒造りの本場であり続けました。酒粕で作られる高級な漬物の名称が「奈良漬」であるのもその名残です。
9.技術から付加価値へ
江戸時代、転機が訪れます。江戸幕府は寺社勢力を削ぐ為に商売を禁じます。ここに僧坊酒の歴史は終わります。寺の技術は、職人や道具と共に周辺地域に拡散しました。
中谷家には正暦寺の酒造りを受け継いだ興福寺全盛時代の酒壺が伝わっています。奈良酒の伝統を受け継ぐ在郷商人から酒造株と共に購入したものです。
江戸という巨大消費都市が建設されましたのでその需要を満たす為、海上輸送に便利な海辺に造り酒屋の工業団地ができ、それが巨大化して行きます。今日に至るまで日本最大の酒産地であり続けている灘です。
明治22年、東海道線が開通すると物資輸送の主力は鉄道になります。京都の南に清酒製造企業の集積が起きます。日本で二番目の醸造規模を誇る伏見の誕生です。「京都」が持つ雅(みやび)なイメージが販売に役立ったことは間違いありません。
田中角栄首相の時代、日本列島改造の波に乗り、関越自動車道が開通すると、トラック輸送が便利になり新潟の酒が東京市場を席巻します。「米どころは酒どころ」といった誤解を生みかねないキャッチフレーズで作られたイメージ戦略が成功しました。
このように、技術が普及し熟成すると、技術力が事業を左右する比重が下がります。一定の技術力を前提とした上で商品価値を上げる為に何が加わるか、即ち「付加価値力」とでも言うものが重要になります。
内燃機関を動力とする自動車技術は、普及熟成しました。スバルの持つ付加価値は中国でも評価され、いよいよ中国で生産されます。一方、ハイブリッド車という新しい技術の競争が始まっています。日本酒の業界では「日本酒」の定義を変えない限り起こり得ないことではあります。
第13話終わり
写真1:松尾大社大鳥居
写真2:平城京朱雀門(復元)
写真3:中谷家に伝わる16世紀の酒壺