第10話 幕末と英国と龍馬<結編>暗殺

投稿日:2010年11月05日

 坂本龍馬がブームです。戦後、龍馬が有名になった端緒は、司馬遼太郎が書いた小説「竜馬がゆく」です。1962年からサンケイ新聞夕刊に連載され、評判になりました。「竜馬」は幕末に実在した「坂本龍馬」を題材に、司馬氏が創作した人物です。

  さて、実際の坂本龍馬はどうであったのか。今回は<結編>、最終回です。

  本文中の文章の引用は、特段断らない限り、加治将一著「龍馬の黒幕」からのものです。

13.龍馬暗殺前夜

大洲城天守閣(2004年に復元)

 慶応3年(1867)7月(旧暦)に起きたイカルス号事件を契機にパークスが土佐を訪れ、土佐藩と英国は接近します。

 新政権に幕府の影響力を残そうと10月(旧暦)、徳川慶喜は大政奉還に踏み切りますが、幕府の影響力が残ることを怖れた岩倉具視、薩長は王政復古へと動きます。12月9日(旧暦)、明治天皇が王政復古の大号令を発し、親政を行うことを宣言することになります。

 いろは丸事件で得ることになった巨額の賠償金は未だ手にしていませんが、龍馬と海援隊が潤うことは世間の知るところです。信用力が格段に向上した龍馬は、賠償金をあてにして、或いは信用を利用して、派手に動き始めます。

大洲藩の財政を和紙と木蝋で支えた内子町街並

 賠償交渉終結から程ない慶応3年(1867)7月27日(旧暦)に結成された陸援隊に海援隊から金を出すことを約束します。陸援隊は、倒幕武装クーデターの為に京都で結成された武闘集団です。土佐出身の中岡慎太郎が隊長となり、土佐藩の用意した宿舎に浪人を集めました。

 いろは丸に代わる船としてオランダ商人アデリアンから1万2千両で洪福丸を入手しました。やはり大洲藩の名義で購入し、海援隊が運用を請け負い、その収益で弁済する形です。

 大洲藩は、いろは丸で国島六左衛門という犠牲者を出しています。大洲藩が懲りないというよりも、いろは丸の購入契約書の偽装で海援隊に協力した経緯上、海援隊の言いなりにならざるを得なかったと見るべきでしょう。

  又、龍馬は9月(旧暦)に小銃1千3百丁を長崎で入手します。1万9千両弱の巨額の取引です。内、千丁を土佐に運びますが、これは土佐藩への分け前でしょう。

 中には、司馬遼太郎が書いたようにミニエー銃よりも進んだ後装七連発のスペンサー銃も含まれていたようですが、いろは丸と共に沈んだはずのミニエー銃400丁も含まれていたと私は考えます。

 購入した1千3百丁全てミニエー銃とした場合、一丁あたり15両を切ってしまうからです。400丁を除いた900丁で割れば、一丁あたり21両。弾薬を含めると辻つまが合います。龍馬は、900丁を買い足したのです。

 土佐に運ばれた千丁の銃は、戊辰戦争で板垣退助率いる土佐藩の活躍を支え、結果的に土佐藩出身者が維新政府で一定の地位を得ることに繋がります。

  その後10月6日(旧暦)、大坂に入ります。やがて京都に移り、11月12日(旧暦)、近江屋に身を隠します。運命の日の3日前です。

 加治氏は、龍馬暗殺は薩長、岩倉具視など武力討伐派の陰謀であるとしています。公武合体の平和的新政権樹立を目指す龍馬が邪魔になったというのです。英国側内部でも龍馬を支持するか否か、方針を巡る争いがあったとしています。

 しかし、龍馬が陸援隊を援助することと矛盾してしまいます。おまけに龍馬は薩長による武力討伐を阻止したり、やがて樹立される新政権の内容を左右できるほどの人物とは思えません。加治氏もまた司馬遼太郎の「竜馬」の影響を受けてしまっています。「竜馬」は偉人、そして英雄ですが、龍馬は偉人などではありません。

龍馬(桂浜龍馬像説明パネル)

 1853年から1858年、龍馬は下士であるが故に起用された下級諜報員です。剣道の修練は隠れ蓑。佐久間象山塾などで情報を集めました。

 1862年、「脱藩」の身分を得た後、1863年から幕府の諜報員たる勝海舟の手下になり、幕府の情報収集にあたり、優秀な成績をおさめました。

 1864年、グラバーと知り合い、1865年、長州への武器供給の為に設立された亀山社中の代表者として名義を貸しました。

 龍馬のすごさはここから発揮されます。亀山社中の代表者の地位を利用して、亀山社中を用船会社として動かし始めると共に、1867年のいろは丸事件で紀州藩相手に詐欺恐喝を行い、巨額の賠償を受諾させます。

 賠償金はまだ受け取っていないにもかかわらずその期待利益を背景に、龍馬は風呂敷を拡げます。捕らぬ狸の皮算用。土佐藩、海援隊の間で分配をめぐる争いが起きないはずはありません。

 下士から身を起こして羽振りよくやっている龍馬は嫉妬の対象でもありました。陸援隊も分け前にあずかろうと虎視眈々。収拾はつきません。

14.龍馬暗殺

坂本龍馬記念館

 11月15日(旧暦)、事件は起こります。十津川郷士の名刺を持った刺客が斬ったという世間に最も知られている状況は、大正15年に土佐の岩崎鏡川が発表した「坂本龍馬関係文書」の中から拾ったものだそうです。

 「鏡川」という名前自体、高知市を流れる川であり土佐を象徴しています。戦前の竜馬ブームの後ですから客観的な資料とは言えません。中岡慎太郎はとどめを刺されませんでした。

 二日間も生きていたのに信用に足る証言は残しませんでした。遺留品にせよ、証言にせよ、信用のできるものがないことを加治氏は丁寧に論証します。

 近江屋は、土佐藩御用達の醤油屋。土佐藩邸は向かいにあり、警護の侍がいますので外からの来客は目に留まります。騒ぎがあれば直ぐに聞こえます。外から入った刺客が逃亡するのも困難です。

 おまけに陸援隊は中岡隊長が龍馬と共に斬られたのに、事件当夜隊士は全く動いていません。土佐藩、海援隊も同様です。事件があったことは翌朝まで知らなかったのです。

 「当夜、集まったという連中は、事件後に駆けつけたのではなく、事件の前から現場にいた。そう考えるのが自然だ。怪しまれるから、利害関係のない小僧、峯吉を持ってきただけの話だ。

 推測すれば、目的を持って近江屋に乗り込んだのは、中岡慎太郎、谷干城(土佐藩)、毛利恭介(土佐藩)、田中光顕(土佐藩、陸援隊)、白峰駿馬(海援隊)。斬りつけたのは中岡だった。」

 「事件の前から現場にいた」のは、海援隊、土佐藩、陸援隊が丁度二名ずつ。賠償金分配を議題とした重大会議を名目に集まったと考えられます。

 龍馬暗殺の原因は、いろは丸賠償金をめぐる銭ゲバではなかったか。それが私の結論です。画餅、即ちまだ支払われていない賠償金を巡って幹部の刃傷沙汰。恥ずかしくて外部に話すこともできません。

 都合良く、斬られた側も斬った側もどちらも死んでくれましたので、かん口令を敷き、身内だけの秘密としました。外に対しては、新撰組を犯人として臭わせました。事件は迷宮入りしました。

15.暗殺その後

龍馬の短銃(模型。龍馬の生まれたまち記念館)

  賠償金は、海援隊の会計掛をしていた岩崎弥太郎の日記(旧暦11月22日)によれば、1万3千両減額の7万両で手打ちとなり4万両が支払われました。

 その後の12月7日(旧暦)、海援隊は京都油小路の天満屋に紀州藩の三浦休太郎を襲います。三浦は紀州藩の代表としてこの時、賠償金支払いに当たった人物です。

 三浦はアゴを切られただけで済みますが、同席していた新撰組隊士は二人が殺されます。三浦は縮み上がったことでしょう。残額も支払われた模様です。海援隊の性格を如実に顕しています。

 因みに、土佐藩の毛利恭介はその後行方不明です。口封じされたものと私は推測しています。残ったのは、各当事者一名ずつ、三名です。

 土佐は民度が低い土地でした。龍馬のしたことはその背景も含めて、私には理解できます。現代にも一部の「土佐人」に受け継がれている商道徳の欠如の事例を知っているからです。

 私はかつて総合商社に勤めていました。付き合いがあった卸会社。同社の納入業者イジメは常態化していました。それに加えて、「ホテル業を始めます。皆さん出資して下さい。配当はありません。

 割引券を渡しますので、宿泊して下さい」。こうして突然ホテル事業が成り立つのです。優越的地位の濫用以外の何者でもありません。ホテル以外にも耳に入ってきます。

 経営者が公的な地位を得ることで公的な監視が入らないという構図があるのかもしれません。私はこれ以上書けません。

 龍馬は、土佐の下士気風を代表する人物でした。土佐であるからこそ生まれた人なのです。スキさえあれば徹底的にそこを突いてきます。善悪に関係なく利用します。

 龍馬は、「幕末」を利用して徳川御三家・紀州藩をいろは丸事件でカモにしました。三菱の創始者、岩崎弥太郎が伸びていく過程でも同じ事が言えます。

 土佐藩の借金と引き替えに藩船を手に入れ借金は踏み倒す、藩札買い上げの政府情報を事前に入手し藩札を買い占めて巨万の富を得る、といった具合です。

 それは、長宗我部から山内に替わる土佐藩の下士をめぐる事情が受け継がれ反映したものに違いありません。一言で言えば下士には商道徳がなかったのです。それ以前に心の余裕がなかったのです。

 さて、<起編>の「皇后の奇夢」に戻りましょう。皇后は確かに白装束の武士の夢をごらんになったのでしょう。時はロシアという大国相手の戦争が始まったばかり、日本は負けるかもしれません。

 それを聞いた宮内大臣の田中光顕は、白装束から海援隊、そして坂本龍馬を思い浮かべました。「龍馬の怨念か」と震え上がったのでしょう。

 田中は陸援隊幹部として、龍馬暗殺にかかわったのですから。もっと言えば中岡隊長が深手を負ったあと、龍馬にとどめを刺したのが田中で、毎夜悪夢にうなされていたのかもしれません。

 田中は、マスコミを使って龍馬を英雄に祭り上げ慰霊することを思いついた、私はそう考えています。

 最後にもう一度申し上げましょう。司馬遼太郎の書いた「竜馬」は英雄。歴史上の龍馬とは別物です。

 紀州藩の支払金額やその最終的な受領者については論争があり、今後の研究が待たれます。一つだけ申し上げるとすれば、大洲藩に受領の記録はなく、岩崎弥太郎が懐に入れ、創業資金にしたとする研究者が多く存在します。そうだとすれば、坂本龍馬は三菱財閥の恩人として歴史に名を残すべきことになります。

第10話 終わり

写真1:大洲城天守閣(2004年に復元)
写真2:大洲藩の財政を和紙と木蝋で支えた内子町街並
写真3:龍馬(桂浜龍馬像説明パネル)
写真4:坂本龍馬記念館
写真5:龍馬の短銃(模型。龍馬の生まれたまち記念館)