坂本龍馬がブームです。龍馬が有名になった端緒は、司馬遼太郎が書いた小説「竜馬がゆく」です。1962年からサンケイ新聞夕刊に連載され、評判になりました。「竜馬」は幕末に実在した「坂本龍馬」を題材に、司馬氏が創作した人物です。
さて、実際の坂本龍馬はどうであったのか。今回は二回目、<承編>です。
本文中の文章の引用は、特段断らない限り、加治将一著「龍馬の黒幕」からのものです。
5.英国の東アジア進出
日本の幕末も世界の情勢から眺める必要があります。
当時、世界の最強国は英国。最強の海軍力を背景に領土を拡げ、中国・清にも迫っていました。海外への進出は当然英国に経済的な利益をもたらすのが目的です。清は海禁策をとり、国土の南端に近い広州に限定して海外貿易を許していました。
英国は清から茶、絹製品、陶磁器を輸入し、貿易収支は赤字でした。そこでインド産阿片を中国に輸出することで貿易を均衡させることにします。阿片はケシから採れる麻薬で、非常に高価ですから英国に巨万の富をもたらしました。
一方、中国は代価の銀の大量流出と阿片の害を食い止めるために輸入を禁止します。1840年、英国は戦争をしかけて清を打ち破り、賠償金、香港の割譲、上海など5港の開港、不平等条約の締結(治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇)を勝ち取ります。
更に1857年のアロー号事件をきっかけに第二次アヘン戦争を起こし、清を「半植民地化」するに到ります。
次の目標は日本です。日本は鎖国をしており、長崎出島での交易を許されていたのはオランダと清だけでした。1853年には米国のペリーが浦賀に来航し、翌年日米和親条約を結ばせ、鎖国は終わりを告げています。
英国は1858年、日英修好条約締結に成功し、長崎、函館、神奈川での貿易を許されます。自由貿易までもう一歩、立ちふさがる幕府を何とかしなければなりません。
6.英国とグラバー
長崎の市街を見下ろす丘の上に観光名所グラバー邸があります。グラバーは安政6年(1859)に21歳で来日し、ジャーディン・マセソン商会の日本代理店グラバー商会を設立しました。
ジャーディン・マセソン商会は、アジア貿易を独占した東インド会社を引き継いだ英国の国策会社であり、清からの茶の輸出と清への阿片輸出で巨万の富を築きます。現在はバミューダ諸島ハミルトンに登記する株式会社で、世界企業番付上位の国際複合企業です。
グラバーが若くしてそのような地位を得ることができた要因として加治氏はフリーメーソンという秘密結社の存在を指摘しています。フリーメーソンは、メンバーの互助組織で、英国王室ともつながっていました。
「クラバー関連の敷地は約一万五千坪、いつのまにか南山手にある居留地面積の四割近くを占めていた。スコットランドから来た若者は、日本一の国際都市、長崎の丘を占拠し、外国の武器取引を一手に握り、バックに世界最強の英国軍を従えていたのである。
少なくとも他人の目にはそう映った。神のごとき存在である。」
ウィキペディアで「ジャーディン・マセソン」を引いてみますと、グラバーについて、「幕末・明治の日本において、五代友厚(薩摩)、伊藤博文(長州)、坂本竜馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援し、フランスに支援された徳川幕府打倒にも密接に絡んだた(引用者注:「絡んだ」と思われる)ことで倒幕運動(明治維新)の黒幕としても知られる。」とあります。
グラバーは英国の意向を受けて、軍艦を含む船舶や武器を、英国が意図する売り先に販売していたのです。
7.英国と薩摩
薩摩藩の財政は琉球を経由する密貿易によって支えられてきました。開国は貿易立国薩摩にとって歓迎すべきものでした。しかし貿易は幕府が独占しています。幕府は邪魔者に違いないのですが、朝廷は攘夷を主張しています。単純に、朝廷に与(くみ)する訳にも行きません。
薩摩藩の実質上の藩主である島津久光は文久2年(1862)、兵を率いて上洛。朝廷と意見を擦り合わせた上で、江戸へ下り、武力を背景に幕府に公武合体の推進を飲ませるというとんでもない事件が起きます。これにより参勤交代は廃止されます。幕府の権威は地に落ちました。
帰国途中の横浜で8月(旧暦)に生麦事件を起こします。翌文久3年(1863)3月(旧暦)に二度目の上洛をします。薩摩は攘夷の旗頭に担がれている朝廷と密接な関係を築きます。
ところが同年7月(旧暦)に、前年の生麦事件を原因として薩英戦争が起きます。鹿児島の街は焼け、薩摩藩は攘夷の無意味さを悟ります。尊皇倒幕の始まりです。島津久光は同年10月(旧暦)に三度目の上洛をします。
既に英国は薩摩藩内に協力者を作っていました。五代友厚です。
五代友厚は、幕府が開いた長崎海軍伝習所に薩摩藩が送り込んだ16名の内の一人です。伝習所のトップは勝海舟でした。伝習所が閉鎖されたあと、安政6年(1861)暮れ、五代は薩摩藩家老の小松帯刀の命で長崎にグラバーを訪ね、二隻の蒸気船を発注し、直後に薩摩藩御船奉行副役に任命されています。
薩英戦争では藩の三隻の船と共に英軍の捕虜になりますが、英国側と通じて船を引き渡したと推測されています。戦争後、薩摩藩の追求から逃れる為、英国によってかくまわれますが、その間五代には英国から記録に残るだけでも百両の金が渡されています。
ほどなく五代はグラバー邸に潜伏していることを薩摩の密偵に突き止められますが、小松帯刀が間に入り、五代は許されます。薩摩は英国との友好関係に入り、倒幕に必要な軍艦や武器の供給をグラバーから受けるようになります。
慶応元年(1865)、五代友厚、寺島宗則を含む薩摩藩の19名が留学します。資金はジャーディン・マセソン商会、ロンドンで世話をしたのはグラバーの兄です。
クラレンド外相はパークス駐日公使に宛てた通信文の中で五代と寺島を「薩摩のエージェント」と呼んでいます。加治氏が指摘する通り、シークレット・エージェント、即ち英国のために働くスパイ工作員以外の意味ではなさそうです。
「日本において、体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」(1866年4月26日付、ハモンド外務次官よりパークスへ)
8.英国と長州
攘夷派が支配する長州藩は、文久3年(1863)5月(旧暦)、海峡を通る商船に砲撃を加え、下関戦争になります。長州の軍艦は壊滅し、砲台も破壊されました。
にもかかわらず井上馨、井上勝、伊藤博文、遠藤謹助(以上何れも明治政府の造幣局長に就任)、山尾庸三(明治政府の工部卿)の長州藩の五人が同月、英国留学に旅立っています。その費用は弱冠22歳の伊藤博文が調達したといいますが、そんなはずもありません。
ロンドンで彼らを出迎えたのはジャーディン・マセソン商会の責任者です。実は長州藩は前年に同商会から船舶を購入しており、太いパイプができていたのです。
伊藤博文は農民の生まれです。14歳の時に伊藤家の養子になり軽卒という最下級の武士になり、その後吉田松陰の松下村塾に入ります。
加治氏によれば松下村塾は「飛耳長目」という諜報活動の科目に特色があったそうです。英国行きは長州藩の諜報活動の一環であったことがわかります。
「最下層の武士は、日頃から犬のように虐げられているため、潜在的に武家社会にわだかまりを持っている。体制に疑問を持っていれば、新しい考えが心に芽吹きやすい。そこに人間としての希望を見出す。
ようは改革思想に染まりやすいのだ。特に外国探索に従事するものは目覚めやすい。勝海舟、坂本龍馬、五代友厚、伊藤博文、井上馨。彼らの氏素性はいずれも下層の出であり、外国と密に接している。保守派が危惧したように、彼らはいち早く開国派に身を転じ、倒幕の旗手になっているのだ。」
伊藤博文と井上馨は留学半年で帰国します。下関戦争の直前に密航して英国に来たのに、藩内の「攘夷論をひっくりかえそうと」(伊藤博文後日談)、或いは「尊皇開国の方針をとらせよう」と(井上馨後日談)、急遽帰国を決断したといいます。最下級の武士が国に戻って何ができるというのでしょう。
「彼らに帰国を催促できる人物は、ただ一人である。密航をお膳立てしたスポンサー、グラバーその人をおいてほかにない。」
二人が帰国したのは尊皇攘夷の急進派である長州が元治元年(1864)7月(旧暦)、禁門の変を起こし、第一次長州征伐が行われるその時期です。四カ国連合艦隊が編成され、下関海峡を封鎖する長州を攻撃しようと横浜港に集結していました。
二人は、英国軍艦に乗って長州に戻り、降伏を勧める書状を藩主毛利敬親に渡したといいますが確認はされていません。8月(旧暦)、連合艦隊が下関を攻撃する直前、二人は和議を求める藩主からの書状を英国領事官付日本語通訳のアーネスト・メーソン・サトウに届けようとしますが間に合わなかったとされています。
サトウは、日本人の苗字に似ていますが、生粋の英国人です。文久2年(1862)に19歳で来日し、英国領事官付の日本語通訳として活躍しました。駐日歴二十五年に及び、この後正規の外交官を経て公使にまで登り詰めます。
「書状を持った博文が舟を漕ぎ出すと、艦隊はすでに移動していた、などというのは馬鹿げている。下関に行けば分かるが、海峡は非常に狭く、艦隊は陸地から手の届く所に停泊せざるをえない。」「井上の動きも奇っ怪だ。まっすぐ艦隊に向かわず、わざわざ急を要する書状を持ったまま自藩の砲撃隊を諫めてから、おもむろに舟を漕ぎ出しているのだ。」
英国は、「和平に努力したが、敵に聞き入れられず、万策尽きて開戦したという儀式。口実が欲しかった。そのためには、博文と井上という和平のためには血まなこになって走り回る登場人物が必要だった。」
元治元年(1864)8月(旧暦)、英国を主力とする4カ国艦隊の攻撃を受け、砲台は破壊され占拠されました。長州藩もようやく攘夷の無意味さを理解しました。伊藤博文は英国担当窓口になります。
9.薩長同盟と龍馬
慶応2年(1866)1月21日(旧暦)に京都で結ばれた薩長同盟が、薩長が協力して倒幕に動く起点のように言われています。
出席した薩摩側は、家老・桂久武、家老・小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛というそうそうたるメンバー。一方、長州側は桂小五郎(後の木戸孝允)という小物一人。それほど重要な会談とすれば不自然です。
龍馬の裏書きというのも会談の合意内容をその場で確認する文書ではなく、桂小五郎が後日したためた手紙の裏に書いたものです。
同年6月(旧暦)に第二次長州征伐が行われますが、長州軍の勝利に終わります。実は、前年に「薩長同盟」は結ばれ、長州は薩摩の支援で最新式のものを含む小銃七千余丁や軍艦など武器の増強を受けていたのです。
第一次長州征伐で負けた長州は、早急に兵力を立て直す必要がありました。ミニエー銃(萩博物館編集・発行「明治維新の光と影」によれば、実際にはミニエー銃を英国陸軍が改良したエンフィールド銃であった)を歩兵に装備させれば圧倒的な優位に立てます。
それまで主流のゲベール銃は設計が九十年も前で、火縄銃と大差ないものです。火縄銃より進歩した点は、火薬が紙の薬莢に入っており装填が楽になったことと、火縄の代わりに燧石(ひうちいし)の打撃によって点火できることです。
ミニエー銃(エンフィールド銃)はアメリカ南北戦争(1861-1865年)で大量に使用された銃です。ゲベール銃と同様に紙薬莢と弾丸を銃口から装填しますが、大きな違いがありました。
それは、銃腔に条溝(ライフル)があることと、弾丸がそれまでの球形からほぼ現代と同じ形になったことです。弾は条溝により回転を加えられますので、直進性が飛躍的に向上しました。射程距離が伸びると共に、狙って撃つことができるようになりました。銃身の上部に照準器(照門と照星)が付きました。
戦法は一変します。ゲベール銃では敵が百メートル以内の至近距離に来てから集団で同時に発砲しなければ効果を発揮しませんが、ミニエー銃では兵士が分散して二、三百メートルの距離から共通の目標を攻撃できるのです。
しかし、朝敵で幕府の敵でもある長州に武器を売ってくれる者はいません。
なぜかグラバーはミニエー銃4千3百丁を含む長州藩希望の7千3百丁、既に調達を終えていました。グラバーはトンネル会社を作って、その名義で販売することを考えついたのです。
亀山社中という会社が作られ、その代表者に坂本龍馬という中立を装える人物が据えられ、実務は長崎の豪商小曽根英四郎が行いました。銃は薩摩藩が購入し、長州に運ばれました。
長州藩は軍艦ユニオン号も手に入れました。グラバーから亀山社中を通して薩摩藩が購入し、長州藩が運用することにしましたが、実際は亀山社中が運用を請け負いましたので、長州藩は表からは見えません。この船は第二次長州征伐で活躍します。
こうして見ると、「薩長同盟」とは言うものの、倒幕を主導したのは薩摩藩であり、武器の供給を通して長州藩を手足として使っていたことが明らかです。
「薩長同盟」に龍馬の果たした役割は、名義貸しでした。朝敵、幕敵の長州を支援することは危険なことでした。表に立つのは名義人です。案の定、慶応2年(1866)1月23日(旧暦)、龍馬は寺田屋で襲撃されます。
「龍馬のはじけるような笑い。何にでも好奇心を寄せ、人を惹きつける話術は天性のものだ。亀山社中という商社を任された龍馬は、この頃からリーダーとしての素質を開花させていったのである。」
第10話<承編>終わり
写真1:高杉晋作が決起した功山寺(下関市長府)
写真2:長州藩の砲兵陣地(みもすそ川公園に設置された復元模型)
写真3:関門海峡(みもすそ川公園より)
写真4:ゲベール銃(左)とエンフィールド銃(銃身上部に照準器)
写真5:ミニエー銃と銃弾(長府博物館企画展「旧臣列伝」有償パンフレットより)