日本経済新聞2010年2月13日朝刊の文化面に次の記事が載りました。
「81面以上の青銅鏡が副葬されていたことが判明し、初期ヤマト政権の威容を物語る資料として注目される桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市、3世紀末~4世紀初め)。
謎の一つが、出土した鏡がすべて小さな破片だったことだ。権威の象徴だった鏡がなぜバラバラにされたのか。"お宝"を巡る盗掘者の意識の違いが理由ではないか、との見解が浮上している。(以下、本文略)」(奈良支局長 竹内義治 大阪社会部 川本太郎)
鏡は埋葬時には割れていませんでした。それは、石室の朱が鏡の断面には付着していないことで解るとしています。誰が割ったのか。薄い小片のみで、厚みのある破片や大きな破片はありません。
このことから、「盗掘者が故意に割った」上で、「銅地金として再利用する目的だった」可能性を指摘する福永伸哉・大阪大学大学院教授の見解を紹介し、記事の一応の結論としています。
盗人に成り代わって考えてみましょう。そのまま持ち出した方が楽に決まっているのに、わざわざ割ったりするでしょうか。破片が飛び散るとすれば、そのロスも考えなければなりません。
鏡は、何か特別な意図で割られ、その後進入した墓泥棒が「銅地金として再利用する目的」で持ち出したと考えるのが自然です。鏡を割った人と持ち出した人は別です。
誰が何の目的で墓を暴き、鏡を割ったのか。今回はこれがテーマです。
1.太陽の道
小川光三氏が発見した「太陽の道」(「大和の原像 知られざる古代太陽の道」大和書房1973年)。北緯34度32分の緯線は、東から伊勢斎宮(さいぐう)跡、箸墓(はしはか)古墳を通って淡路島の伊勢の森までを結びますが、その線上には太陽神・アマテラスに関する神社、遺跡があるというものです。
中心となるものは、箸墓古墳です。この墓は、ヤマトに最初に造られた巨大前方後円墳です。邪馬台国の女王ヒミコの墓とする人もいますが、何れにせよヤマトに王権を築いた始祖王の墓と見て良いでしょう。
造営の時期は、3世紀後半。ヒミコの墓と考える人は、その推測される没年248年頃に合わせる為に3世紀半ばとします。
「太陽の道」を箸墓古墳から太陽の昇る東に向かって検証してみましょう。
箸墓古墳 北緯34度32分20秒
檜原神社 北緯34度32分22秒(箸墓から1.4km)
室生寺 北緯34度32分16秒(箸墓から6.1km)
長谷寺 北緯34度32分 9秒(箸墓から18.5km)
斎宮跡 北緯34度32分28秒(箸墓から72.6km)
先ず、檜原(ひばら)神社は元伊勢と呼ばれ、伊勢神宮が造られる前から続く太陽神祭祀の場とされるものです。現在に至るまで社殿はなく、藁縄(わらなわ)の張られた鳥居のみ。聖なる山・三輪山(みわやま)の麓で太陽を拝む場です。
室生寺は、密教寺院として有名ですが、創建については明らかではありません。ただ、天武天皇の時代に始まったと言われています。天武天皇は、伊勢に斎宮を建設し、伊勢で太陽神の祭祀を始めた天皇です。
長谷寺の創建も明らかではありませんが、寺伝ではやはり天武天皇の時代としています。
斎宮は、太陽神アマテラスを祭る巫女・斎宮の住まいであり、祭祀の為の施設です。
緯度の1秒は31メートルです。箸墓古墳と最も差の大きい長谷寺でも340メートルの違いに過ぎません。しかも何れも広大な敷地ですからほぼ一致していると考えて良いでしょう。
箸墓に葬られた始祖王は、太陽信仰と密接な繋がりを持っていたと考えられます。そして、室生寺と長谷寺の基になる祭祀の場を設け、斎宮を建設した天武天皇も太陽神と密接な関係があったことが理解できます。
天武は天下分け目の壬申の乱の時、「天照太神を望拝」、即ち太陽神に戦勝祈願もしています。
2.邪馬台国の東遷
魏書東夷伝倭人条(以下、魏志倭人伝)に書かれた邪馬台国が九州か、大和かという論争がありました。その決着がほぼ着いていることを知らないマスコミ関係者が多く、あたかも論争が続いているかのような報道がみられます。
ヒミコは魏に絹織物を献上しており、その絹織物の出土情況からヒミコは北九州の女王であったと推定されます。戦後を代表する考古学者、森浩一氏の著書「古代史の窓」を引用しましょう。
「布目氏(引用者注:古代繊維の研究者である布目順郎)の名著に「絹の東伝」(小学館)がある。目次をみると、「絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地を探る」の項目がある。
簡単にいえば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。布目氏の結論はいうまでもなかろう。
倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。(中略)
布目氏は絹の東伝の背後に、絹文化をもった人の集団の移動があったと考え、邪馬台国の東遷説を支持されている。
絹の東伝に類似するのに、銅鏡愛好の風習の東伝がある。北部九州では弥生時代中~後期に中国人が"王"とよんだ人を含め支配者層の人たちは葬られるときに銅鏡を副葬した。しかも前原市の三雲、井原、平原などの古墳では二十~三十枚の銅鏡を副葬している。
これにたいして、弥生時代の奈良県域では、弥生遺跡はたくさんあり、しかも大面積の発掘がおこなわれているのに、北部九州の弥生社会でのような銅鏡副葬の風習の形跡は皆無である。
御所市名柄で、多紐細文鏡一面が出土しているが、これは東北アジアで流行したもので化粧道具としての鏡ではない。
ところが近畿地方で前方後円墳の築造がはじまり、絹が使われだすとともに、ほとんどの古墳に銅鏡が副葬されはじめ、しかも二十~三十枚の多数の銅鏡を副葬する風習もあらわれる。北部九州の文化が伝わったのは事実とするほかない。
その背後に集団の移動を想定すると邪馬台国東遷を考えるのが説明しやすい。こうなると、"ヤマタイ国はどこですか"にたいして"いつの時代のヤマタイ国ですか"と問い返さなければならない。」
3.箸墓の主
ヒミコは、日巫女(ひみこ)、即ち太陽の祭祀を行っていた者と考えられます。ヒミコの死後、邪馬台国は東に遠征の軍を派遣します。
古事記、日本書紀(以下、記紀)に当てはめますと、北九州を出発した船団を率いたのは神武(じんむ)天皇(イワレ彦)。神武天皇を導いたのが三本足の烏に象徴される太陽神です。神武の跡を継いで実際にヤマト征服を成し遂げたのが崇神(すじん)天皇です。
崇神は、太陽神を中心とする邪馬台国の信仰をヤマトに持ち込みました。
いわゆる出雲族を平定してヤマトに王権を打ち立てた始祖王は、崇神です。素直に考えれば箸墓は、崇神天皇陵ということになります。
4.記紀の記述
日本書紀では、ヤマトトトヒモモソ姫(以下、モモソ姫)を葬ったのが箸墓としています。モモソ姫とは何者なのでしょう。
崇神は、山城のタケハニヤス彦の反乱を知ります。古事記では、崇神自身それに気付きますが、日本書紀ではモモソ姫がそれに気付き、おかげで崇神は反乱を平定することができました。
モモソ姫は大物主の妻になります。大物主の正体は実は蛇でした。その姿に驚いて声を上げたので夫は怒って人の姿に戻り、山に飛び去ります。モモソ姫は箸で性器を突いて死にます。大物主は三輪山の神とされています。
山の神のシンボルは蛇であり、箸は蛇を表します(吉野裕子著「山の神」)。モモソ姫は蛇と交わり、箸、即ち蛇と共に死に、蛇と共に葬られたのです。箸墓、即ち蛇の墓。山の神のシンボルの蛇を葬ったということになります。
慌ててモモソ姫のくだりを作ったのでしょう、日本書紀にのみ盛り込まれました。古事記の完成は712年。日本書紀の完成は720年です。
この頃、山の神のシンボル、蛇の抹殺が行われていました。蛇をどのように消し去ったのか、その方法を吉野裕子氏がその著書「山の神」の中で解明しています。
易・陰陽五行等の中国の思想によって、山の神の象徴である蛇を、観念的な「山」を媒介として、方位を示す「亥」(猪)に置き換えました。更に「亥」を媒介として一年12ヶ月の亥月(10月)と結びつけ、五穀豊穣を導き出しました。
山の神は、豊穣をもたらす田の神ですから、効能は同じ。このようにして、古来の山の神を、観念的に作られた山の神にすり替え、蛇を抹殺することができるのです。
私は、新しい山の神の祭祀の場として、神社というものが考案されたと考えています。それまで蛇を象徴とする山の神は、祭祀の為の特別な建物は持たなかったのです。おそらく日本中に神社建設のブームが起きたことでしょう。そんな時代だったはずです。
5.蛇が消された理由
記紀は、藤原不比等が命じて作らせたものです。記紀は始祖王の墓を蛇の墓に変えてしまいました。山の神の象徴である蛇はなぜ葬られなければならなかったのでしょう。
一言でいえば、天武天皇の思想を否定する為です。天武は、蛇を象徴とする山の神信仰の基に、後に藤原京と呼ばれる都を建設しました。その内裏は、大和三山に囲まれています。
北は耳成山(みみなしやま)、東は香具山(かぐやま)、西は畝傍山(うねびやま)。何れの山も円錐形で、とぐろを巻く蛇の姿が見て取れます。その名称も蛇神を暗示しています。「ミミ」は巳、「カグ」は蛇の古語「カカ」、「うねび」は「うねぶ」という蛇の動きのようです(畝傍山を南東から見れば、「うねぶ」山際ラインが見えます)。内裏、即ち王宮は、蛇神、即ち山の神に守られていたのです。
天武の死後、権力を握った藤原不比等は、唐を簒奪して周を建てた武則天にならい、持統天皇を傀儡として新王朝を打ちたてます。周にならって藤原王朝の為に平城京という新都を建設します。新都の為の新たな守護神も創造しました。
自身の王朝を正当化する記紀を編纂させました。そして前天武王朝の最大の事績である新益京(あらましのみやこ)建設を隠蔽し、名称まで藤原宮と偽装したのです。
蛇を象徴とする山の神信仰の下で、蛇に守護された新益京を「藤原宮」と呼ぶのは不都合です。蛇信仰自体、前王朝の天武が強調したものです。そこで行われたのが、山の神から蛇を消し去る作業です。(アラカン社長の徒然草 第7話「平城遷都と山の神」を参照下さい)
6.箸墓が選ばれた理由
「箸墓とみてまず間違いのない古墳が、「紀」(引用者注:日本書紀)にもう一度出ている。しかも、扱いのランクがあがって「箸陵」として出ている。
「紀」によると、壬申の乱(六七二年)のとき、戦の勝利を祈願するため、大海人皇子(のちの天武)側がイワレ彦(神武)の陵に馬や兵器を奉っているのと、三輪君高市麻呂らが上道方面で、箸陵のもとに戦っているのと、陵関係の記事が二つある。
ぼくは前に、「想像が許されるならば、皇位争奪の争乱(壬申の乱)にさいして、いち早く始祖王の墓、および大和の王権にとって伝説のうえで由緒ある箸墓を手中におさめたり、戦勝の祈願をおこなうことは、皇位の正統性あるいはその地域にたいする支配の正統性を主張するうえで、重要な手段であったとみてよかろう」と述べたことがある。」(森浩一著「記紀の考古学」)
箸墓が造営されたのは壬申の乱の4百年前のことです。壬申の乱の時にもこの墓が誰のものか、当時の人々は知っていました。
天武は異端の王でした。天武は天智の弟とされていますが、天智は4人の娘を天武に嫁がせます。濃厚な近親婚を繰り返すのは不自然です。又、年齢も「弟」の天武が「兄」の天智より上です。
天武は天智とは異なる血筋であり、天武は子孫の為に王家の血を求めたと推測できます。天武は天智の死後、672年、壬申の乱に勝利して天皇位に就きました。
天武は壬申の乱の戦勝祈願を、太陽神と共に始祖王(上記、森浩一氏の記述する「イワレ彦の陵」)の墓にも行いました。天武はその王位継承の、或いは統治の正統性を主張する為に、始祖王墓を祭り、尊重し、その権威を利用したに違いありません。
天武の後、政権を握った藤原不比等にとって、この墓の権威は邪魔でした。この墓の権威を否定する必要がありました。不比等は、始祖王が北九州から来たこと、その先代、或いは先々代が巫女(みこ)であったことを知っていました。
それは当時の常識だったことでしょう。不比等は、魏志倭人伝を読んで、「邪馬台国の卑弥呼」と重ね合わせて理解していたはずです。日本書紀を書くにあたっては、ヒミコをイメージしながらモモソ姫を創作し、タケハニヤス彦の反乱を預言させたり、大物主に憑かれて「我(大物主)を祭れ」と言わせるくだりを作りました。
最後は夫である大物主に逃げられ、夫と見立てた箸と交わって死んだことにしました。神に見捨てられたバカで哀れな女。これを葬ったのが箸墓という訳です。不比等の高笑いが聞こえてきそうです。
7.蛇と鏡
天武はその王位継承の、或いは統治の正統性を主張する為に始祖王が重視していた神とその信仰を利用しました。それが太陽神と、蛇を象徴とする山の神の二つであると推測できます。
さて、冒頭の問いに戻ります。茶臼山古墳の銅鏡は誰が割ったのか。私は藤原不比等と考えます。鏡は、太陽神の象徴でした。更に鏡は、蛇神の象徴でもあったのです。
鏡(かがみ)は、蛇の古語「カカ」に「見」、もしくは「身」(即ち蛇の姿)と考えられます。神社は、不比等が山の神から蛇を消す為に中国の思想で作った新しい山の神を祭る為に造られました。建設された神社の本殿には、鏡が置かれました。山の神が蛇であったことの名残です。
藤原不比等は、山の神の象徴である蛇を葬りました。天武の正統性を主張するために使われた始祖王・崇神の墓を蛇の墓としました。同時に、崇神に始まる3世紀後半から4世紀の王達の墓を暴き、鏡を割ったと思われます。
同時代の王の墓と考えられる茶臼山古墳では鏡が割られていました。その他の王墓はどうでしょうか。残念なことに箸墓はもとより、王墓と推測される大規模なものは宮内庁が皇室陵墓に指定している為、発掘は許されません。
最後に一つ疑問が残ります。天武が建設した伊勢神宮は不比等による破壊を免れました。おそらく蛇を切り離した純粋な太陽神、或いは別系統の太陽神、不比等が記紀に書かせた「アマテラス(天照大神)」とされたことが幸運を招いたと思われます。
ただ、明治に至るまで歴代天皇は誰一人参拝しませんでした。
第8話終わり
写真1:日経新聞記事
写真2:箸墓古墳(左奥に三輪山)
写真3:箸墓古墳の宮内庁掲示板(「倭迹迹日百襲姫」の記載)
写真4:檜原神社鳥居