第7話 平城遷都と山の神<後編>

投稿日:2010年5月14日

4.藤原京

藤原京内裏より北に耳成山を望む

 当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれました。藤原京の内裏を指すと思われる「藤原宮」は後に国権の最高権力者になる藤原不比等(ふじわらふひと)が自身の姓を冠して日本書紀に記させたものです。

 日本書紀には持統天皇が691年に地鎮祭を行い、694年に遷都したとあります。しかし、天武天皇が持統皇后の病気平癒を祈って680年に発願し建設した薬師寺が、発掘の結果、正確に右京八条三坊の地に納まっていることから、天武天皇の時代に建設を開始したことは間違いありません。

 天武にこだわるのには訳があります。天武は天智の弟とされていますが、天智は4人の娘を天武に嫁がせます。濃厚な近親婚を繰り返すのは不自然です。又、年齢も「弟」の天武が「兄」の天智より上です。

 天武は天智とは異なる血筋であり、天武は子孫の為に王家の血を求めたと推測できます。天武は天智の死後、672年、壬申の乱に勝利して天皇位に就きました。天武は異端の王なのです。

5.天武の政策

藤原京発掘現場

  天武は、初代神武天皇以来日本を治める王達の祖神とされる太陽神を、都を遠く離れた伊勢に祭りました。

  従来、藤原不比等が編纂させた古事記と日本書紀(以下、記紀)を根拠に4世紀初頭、垂仁(すいにん)天皇が天照大神を大和から伊勢に移したのが始まりとしていましたが、1970年に始まった斎宮(さいぐう)の発掘調査の結果、斎宮は天武天皇の時代に建てられ、673年に選ばれた大来皇女(おおくのひめみこ)が実在する最初の斎王(さいおう)と判明しています。

 天武は斎宮と共に伊勢神宮を建設し、祭祀を始めたものと思われます。奇妙なことですが、明治になるまで歴代の天皇は誰一人伊勢に参っていません。

 更に発掘の結果、意外な事実が浮かび上がってきました。斎宮には瓦が使われていなかったのです。

  瓦は仏教伝来と共に寺院建築の為に使用が始まったものです。当時既に法隆寺をはじめ日本中に多くの仏教寺院があり瓦は普及していました。

役所など都の建物にも瓦は使われていました。斎宮は祭祀を司る役所にも拘わらず意識して瓦の使用を避けたことがうかがえます。

 さて、新益京です。広さは平城京より遙かに広く、5.3キロ四方。東西南北に走る道路で碁盤目状に区切られており、中国の都に似ていますが、大きな違いがあります。

 それは、内裏が都の北側ではなく中央にあること、その内裏が大和三山に囲まれていることです。北は耳成山(みみなしやま)、東は香具山(かぐやま)、西は畝傍山(うねびやま)。何れの山も円錐形で、名称も蛇神を暗示しています。「ミミ」は巳、「カグ」は蛇の古語「カカ」、「うねび」は「うねぶ」という蛇の動きのようです。内裏、即ち王宮は、蛇神、即ち山の神に守られていたのです。

 天武の時代、遣唐使は止まり、新羅との交流が盛んになりました。この背景には激動する朝鮮半島情勢がありました。

  天智は親百済でした。660年の百済滅亡を受けて、その復興を助ける為に兵を派遣しますが663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れます。更に新羅は668年に高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一しますが唐との対立が始まっていたのです。

 686年、天武の死と共に揺り戻しがやってきます。

6.平城京

平城宮朱雀門(復元)

  天武天皇の死後、藤原不比等が権力を握ります。天武の子・大津皇子は謀反の疑いをかけられ処刑されます。不比等は天武の未亡人・持統(天智の娘)を自分の屋敷に住まわせ、690年に天皇に即位させます。藤原不比等は天智天皇の子と推測される人物です。

 702年(大宝2)、32年ぶりに遣唐使が派遣され、二年後日本に戻ってきました。彼らは唐の都・長安に行ったのではありません。周の都・神都(洛陽)です。

  当時、中国は武則天の時代です。武則天は唐の高宗の皇后でしたが、690年に皇帝に即位し国号を周と改めました。都を洛陽に定め、神都と改名して長安から遷都していたのです。唐を乗っ取った周は一代限りで終わるのですが、未来のことは知る由もありません。

 持統天皇は不比等の傀儡です。その即位は武則天と同じ年。そして同じく女帝。不比等は周を明確に意識して遷都を決意し、新都を建設することにしました。藤原氏による新しい王朝の為の新しい都。それが平城京なのです。

 不比等は、持統天皇の息子の文武天皇に娘を嫁がせ、生まれた子(後の聖武天皇)にも娘を嫁がせ、藤原王朝を確固たるものにします。

 平城京は唐の都・長安を模して造られたのではありません。周の神都(洛陽)を範としたのです。それは平城京が神都と同じ緯度に建設されたことで明白です。藤原京との位置関係で言えば、北に約20キロ。中心線は西に千メートルずらしました。

 同一直線上にならないように何らかの意識が働いたものと思われます。

 平城京は碁盤目状に道路で区切られ、北端の一条大路と二条大路の間に内裏が造られました。内裏から真っ直ぐ南に延びる中心線となる道路が朱雀大路です。

  朱雀大路は、藤原京右京まで一直線に伸びる下ツ道(しもつみち)を拡張して造られました。その2キロ東に中ツ道(なかつみち)があり、平城京東南端と藤原京左京を結びました(更に2キロ東に上ツ道(かみつみち)がありました)。

 これらの古代道路は藤原京から移築する資材を運ぶ為に拡張されたものと思われます。下ツ道は中谷酒造の東170メートルに健在です。下ツ道に限らず、これら三本の道路はかなりの部分が今も通行可能です。現代に繋がるインフラ資産です。

7.平城京の守護神

  藤原王朝を正当化し、政権を永続させる為にはそれを裏付ける「歴史」を造る必要があります。不比等は古事記と日本書紀の編纂を命じました。

  その中で王権の簒奪を目立たないようにする為に、前の都を「藤原宮」と記し、真の意味での「藤原宮」である平城京との断絶を埋めました。

  新都には蛇に代わる新たな守護神が必要です。そして作り出されたのが、武甕槌(たけみかづち)です。武甕槌は、日本書紀の中で経津主(ふつぬし)に従って高天原(たかまがはら)から降臨し、葦原中国(あしはらなかつくに、即ち日本)を平定した神としました。神の世界から地上に降り立ち支配を始めた始祖神です。

 慌ててこのくだりを作ったのでしょう、武甕槌の上位者である経津主が古事記には漏れています。日本書紀の完成は720年ですが、古事記の完成は712年です。

  不比等は、自身で作った神を祭る神殿を作ることで神の存在の証拠としました。平城京遷都の前年、709年(和銅2)に武甕槌を三笠山の麓に祭りました。これが春日大社の起源です。

 武甕槌は常陸国鹿島から勧請したことにしましたので、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)をこの時に造営したはずです。そして日本書紀完成までに経津主を祭る香取神宮を下総国(千葉県香取市)に造営したに違いありません。

8.神社と豊作祈願

  藤原王朝の新都の為の新たな守護神が創造されますと、蛇を象徴とする山の神信仰の下で、蛇に守護された新益京を「藤原宮」と呼ぶのは不都合です。そこで行われたのが、山の神から蛇を消し去る作業です。吉野氏の言う「易・陰陽五行等による一種の宗教改革」です。

 蛇を祖神として、山の神・田の神とする信仰はあまりにも身近なものでした。蛇を象徴する物も身近に沢山ありました。山のみではありません。藁縄、案山子、櫛、箸、扇、蓑、傘、箒、蒲葵(ビロウ)など。これらを蛇から切り離す必要があります。

 仏教の概念ではこれを行えそうにありません。易・陰陽五行等の中国の思想によってこそ可能となるのです。それは、山の神の象徴である蛇を、観念的な「山」を媒介として、方位を示す「亥」に置き換え、更に「亥」を媒介として一年12ヶ月の亥月(10月)と結びつけ、五穀豊穣を導き出すことによって可能となるのです。

 観念的に造られた新しい山の神は、豊穣をもたらす田の神として本来の山の神とすり替わったのです。

 新しい山の神の祭祀の場として、神社というものが考案されました。それまでの山の神は、祭祀の為の固定化した建物を持たずに祭られてきたのです。神社を造れば、祭祀の形も創造しなければなりません。

 それに協力したのが秦(はた)氏など中国系の渡来人と私は考えています。京都の太秦(うずまさ)には秦氏の棟梁が住んでいました。そこにある松尾大社は松尾山の神を秦氏の祖神として祭ります。松尾大社は701年に創建されています。異端の王が建設した伊勢神宮は別として、日本に神社建設が始まった時期を知る一つの手がかりと考えて良いでしょう。

 奈良時代は山の神を祭る神社建設が流行し、そこで行われる豊作祈願を通して新しい山の神、その祭り方が日本中に広まって行きました。

 又、特定の王、祖先、祖神の信仰と山の神信仰は習合しました。更に神社は、山の神のみならず生活に密着した日本古来の八百万(やおよろず)の神々を取り込んで行きました。

 吉野氏は語ります。

  (山の神を祭る行事である)「カギヒキ・クラタテは一見、奇妙な行事にみえるが、これはまさに、中国古典に説かれていることの実践と受けとめられるのである。

 その折、その時期にふさわしいことをする、というのが一年を生活の単位とした場合の中国の古い教えである。

  奈良・伊賀の山中の村の奥深く、行われる旧十月の冬祭りは、時間的空間的に遠く距たった国の古い教えの多少形を変えた実践と思うとき、何時、何人が村人にこれを教え伝えたのか、何か心をゆり動かされる思いがする。」

 吉野氏は2008年に逝去されました。研究の成果に感謝すると共に、ご冥福をお祈りします。

第7話終わり

写真上:藤原京内裏より北に耳成山を望む
写真中:藤原京発掘現場
写真下:平城宮朱雀門(復元)