今年夏、天津市和平区解放北路の百貨店に「真由美」という日本料理店が開店しました。
店内には、中野良子のパネルがあちこちに掛けられています。彼女は「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)という映画で「真由美」役を演じ、パネルはその映画のシーンだそうです。店のオーナーが中野良子と親しい関係にあるとも。
中野良子と言えば、1970年代に一世を風靡した人気女優でした。日本人にとって記憶から遠くなった「真由美」こと中野良子を、映画公開から33年も経った今になって店の看板に掲げるのには特別な理由がありました。
1.日経新聞の記事から
「文化大革命の終結後の中国が久しぶりに外国映画を輸入公開したとき、まず上演されたのは高倉健主演の「君よ憤怒の河を渉れ」で、これが中国全土にまき起こしたブームはたいへんなものだった。
無実の容疑で追われる男が逆に権力者たちの陰謀をあばくという内容も文化大革命の幕切れにふさわしいものだったのだが、中国人のおよそ80パーセントが見て、繰り返し見るファンも多かったという。日本映画でこれ以上の観客を集めた作品は他にないのではないか。
以来、中国の俳優たちがしきりと高倉健の恰好良さを真似しようとしたというから、中国人の対日感情を良くするという面でも相当な意義があったことは間違いない。」
(日本経済新聞2009年9月24日夕刊文化面 佐藤忠夫氏連載「撮影所スター物語4」より)
2.映画の衝撃
1976年、十年間にわたって中国社会を大混乱に陥れた文化大革命(以下、文革)が終息しました。文革では従来の価値観が否定され、「反革命」の烙印を押された人々が批判され、身柄を拘束され、投獄されたり労働の刑に処せられました。
文革初期には吊し上げ、監禁、拷問、リンチなど私刑が日常化し、互いに「反革命」と罵りあう集団同士が殺し合う武力闘争もあり、多数の人々が命を落としました。
夫婦、親子、親族、隣人の間でも「反革命分子」の密告が行われ、単純な生活上のいさかいが革命問題に転嫁されて家庭や人間関係が崩壊しました。教師は反革命分子とされ高等教育機関は機能を停止し、若者は教育の機会を奪われました。
経済の発展は止まり、人々は等しく貧しい「平等」を享受しました。
やがて訪れた改革開放経済で、努力が報われる社会が戻ってきました。人々が外の世界に目を向け始めた矢先に「君よ憤怒の河を渉れ」が公開されました。
中国政府は、資本主義社会の堕落と社会主義の優越を宣伝する意図があったのですが、その思惑は外れました。腐敗した「権力者たちの陰謀をあばく」高倉健は、やり場のない文革時代の心のつかえを吹き飛ばす清涼感を与えたのです。
大衆は日本という豊かな先進国の社会を知り、それへの憧れが中野良子の爽やかな美しさで増幅されたのでした。
3.文革十年後
1986年夏、私は初めての中国で中国語会話を学んでいました。北京の文教地区である海淀区の北京語言学院に居たのですが、課業のない午後には近くの自由市場や観光地に出かけました。
私が日本人と解ると、「Gaocang Jian」(カオツァンチエン)と声を掛けられます。最初は何を言われているのか解らなかったので、メモ帳とボールペンを渡して書いてもらいました。「高倉健」。
解らないはずです。全く予想もしない単語です。それは、私が高倉健に似ているということではなく、日本人と知って親しみを込めて「高倉健を知ってるよ」と言っていたのです。観光地でも、他の都市でも情況は同じでした。日本人を見れば「高倉健」だったのです。
それにドラマが放映されて評判になった「山口百恵」が時々加わりました。結婚して潔く芸能界を退いて主婦になったことが評価されていたそうです。専業主婦は、男女平等、共働きが原則の社会主義中国にはなかった新鮮な概念だったのです。
4.その時代
新中国建国後、中国の発展の為に専門知識や技術を持った外国人を沢山招きました。そのような外国人の宿泊施設として建設されたのが友誼賓館です。
街では手に入らない食品、とりわけ肉類の缶詰やインスタントコーヒー、輸入酒などを売る売店があり、プールもありましたので、1986年夏はクラスメイトと共に時々訪れました。そこには何とカラオケクラブまであったのです。
「クラブ富士」。ママは日本人でした。酒や簡単なつまみを運ぶのは「服務員」と呼ばれる中国人女性。明るい青の制服姿で決して席には座りません。客はウイスキーなど洋酒を飲んでカラオケで歌うだけも大満足。街には食堂さえろくになかったのですから画期的なことでした。
ある夜、背が高くキリリとした目の服務員を翌日の昼食に招待しました。「背が高くキリリとした目の」というのは、服務員共通でした。
このような外国人相手の職場で勤務するには選抜があり、容姿はもちろんのこと、外国の有害な思想や習慣に毒されない強い政治的意志と健全な思想を備えていることが条件となっていたからです。
翌日、待ち合わせ時刻に来た彼女は、「本日のお招きは誠に有り難いのですが、所用があって食事は受けられません。又店でお会いしましょう」と言って帰って行きました。
中国では相互監視システムがあって、彼女は「思想」を批判されるのを恐れたのです。誘った我々もそれを理解していましたので、「やっぱり無理やったね」と互いに納得して学校に戻ってビールを飲みました。
5.象徴するもの
「君よ憤怒の河を渉れ」を見た人々は、高倉健の活躍を通して先進国の社会を知りました。生活を知りました。先進国日本と隔絶した中国の現実の中で、将来の中国の、豊かな生活の、夢を見ることができました。
文革が終わって始まった新しい時代。政策の揺り戻しを恐れながらも「明日は今日より素晴らしい」と信じることができるようになったあの時代の象徴として、「高倉健」は今も脈々と心の中に生きているのです。「真由美」はそんな中国人の心情をつかむ象徴的な店名だったのです。
終わり
写真上:文革初期に大暴れした紅衛兵の三点セット(帽子、毛沢東語録、毛沢東バッジ)
写真中:北京友誼賓館全景(小池晴子著「中国に生きた外国人」表紙より)
写真下:北京語言学院学習証明書