6.藤原勃興の謎
私は、かつて中臣氏の祖先を名門息長(おきなが)氏ではないかと推測したことがあります。息長氏は、現天皇家に繋がる6世紀の継体天皇以降、濃厚に天皇家の血筋に関与する家柄ですが、藤原家勃興と共に姿を消しています。
死の床で天智天皇より藤原の姓を賜った鎌足。
その子藤原不比等が天武天皇の皇后を自宅に住まわせて即位させ(持統天皇)、奈良盆地南部に建設した新都の名に「藤原」を冠し、文武天皇に自分の娘を嫁がせ、生まれた子にも娘を嫁がせて即位させる(聖武天皇)など普通では考えられない成り上がりは余りに不自然です。
しかし、中臣氏が神武東征で敗れたトミ王家の後裔であったとすれば景色が変わってきます。
7.国譲りと神武東征
古事記、日本書紀で描かれた神話では、日本を指す「葦原中国」(あしはらなかつくに)の中心は出雲で、その王である大国主(おおくにぬし)の統治範囲が拡がり、大和国の御諸山(みもろやま。三輪山のこと)で祭祀を行うまでになります。
大国主は、高天原(たかまがはら。天上の神の国)の太陽神アマテラスが派遣したタケミカヅチ(日本書紀ではフツヌシが加わる)に敗れ、国を譲ります。これを国譲り神話と言います。
一方、近畿式銅鐸の生産地と分布から、二世紀から三世紀にかけて島根県から近畿地方に至る文化、経済のまとまりが見えてきます。そして三世紀後半に弥生時代が終わり、古墳時代が始まります。
そうすると、弥生時代の終わりをもたらした神武東征と国譲り神話は、征服者の神の同一性(太陽神アマテラス)、被征服者の地域性(出雲から近畿)の点で重なって見えてくるではありませんか。
古事記・日本書紀は、神武東征の前に、史実を参考にした神話を置くことで現実と神話を融合させることを意図したのです。神話では、国を譲った大国主は出雲に神殿を建ててもらって引退します。それが現に存在する出雲大社という訳です。
8.大国主と大物主
登美ナガスネヒコが治めた国と大国主が治めた神話上の葦原中国の本拠地・出雲の関係は地名に残ります。先ず、枚岡神社一帯の地名は出雲井です。更に、奈良県桜井市三輪山の麓には出雲庄があります。
ここにトミ王族を残し、ニギハヤヒを祀らせたのでしょう。その祭祀は太陽信仰の共通性からアマテラスと重ねられたはずです。
もとより三輪はその名が示すように巳(み)即ち蛇が、輪(わ)を巻いている円錐形から、山の神とその化身である蛇を祀る聖なる山でもありました。この出雲庄が中臣の拠点となり、後の世まで名家として生き延びることができたのです。
ニギハヤヒに内在した太陽信仰は、神武の持ち込んだ太陽神アマテラスに吸収され、三輪山麓の桧原神社を経て天武天皇の時代(7世紀後半)に伊勢に祀られることになりました。
ニギハヤヒの太陽信仰を除く多様な要素は大物主(おおものぬし)として三輪に残りました。出雲の大国主と三輪の大物主は同じ神とされています。
以上を表にすると次のようになります。
国譲り神話 | 3世紀後半 | |
---|---|---|
征服者 | タケミカヅチとフツヌシ | 神武天皇 |
征服者の神 | アマテラス | アマテラス |
被征服者 | 大国主 | 登美ナガスネヒコ |
被征服者の神 | 大国主 | ニギハヤヒ→大物主=大国主 |
祀る場所 | 出雲 | 日下(出雲井)→三輪(出雲庄) |
9.最後の謎
中臣氏がトミ王家の後裔であるとすれば、一つ疑問が残ります。藤原氏の氏神を祀る春日大社にかつて葦原中国(あしはらなかつくに)、即ち神話の中で語られた自分たちの国のことですが、それを征服したタケミカヅチとフツヌシを祀ったことです。
この両神は枚岡神社にも祀りました。この疑問を解く鍵は、藤原不比等にありそうです。
不比等は、天智天皇の子であったという説があります。天智はその妃鏡姫王を中臣鎌足に下賜し、鎌足は正妻とします。鏡姫王は既に天智の子を孕んでおり、それを知った上で下賜したのです。
果たして天智の死後、壬申の乱で天智の子である大友皇子は自決、天武の時代になります。天武に気付かれず子は無事成長し藤原不比等と名乗ります。天智は忠臣中臣鎌足を使って自分の血を残すことに成功したのです。
天武が亡くなるなり藤原不比等が日本のキングメーカーになります。中臣氏が天智天皇の子・不比等を当主に据えることで中臣氏と天皇家が合体し、生まれたのが藤原氏ということになります。
そうとすれば、藤原氏が初代天皇神武と重なるタケミカヅチとフツヌシを春日大社に祀ることに違和感はなくなります。
即ち藤原氏の氏神の社(やしろ)である春日は、中臣の始祖神アメノコヤネと、征服王である初代天皇を意味するタケミカヅチとフツヌシを祀ることによって、中臣氏と天皇家の合体を象徴する存在なのです。
「死んだはずだよ おトミさん」。ところがどっこい中臣、そして藤原の名で生き続けていたのです。歌手の姓が藤原氏の氏神を祀る「春日」と合致するのも妙な偶然です。ただ事実は歴史の闇の中です。
終わり
写真上:枚岡神社一の鳥居
写真中:枚岡神社本殿
写真下:三輪山と大神(おおみわ)神社大鳥居
あとがき
谷川彰英著「大阪「駅名」の謎」(祥伝社黄金文庫)を近鉄百貨店の書籍売り場で手にとったことから始まりました。電車の中で、「第一章 大阪は「日本」のルーツだった」を読んで私の思索は始まりました。
キーワードは、太陽信仰を暗示する「日下」(くさか)の地名です。古事記・日本書紀は、神武が九州から船団を組んでヤマト征服を目指し、ここに上陸したと記しています。神武に立ち向かった登美ナガスネヒコ一族が信仰したニギハヤヒ神と地名の「日」が関連しているというのです。
日下のすぐ南には枚岡神社があり、中臣氏の始祖神アメノコヤネを祀ります。中臣(ナカトミ)の「トミ」と登美ナガスネヒコの「トミ」の共通性に気付いた時、私の中でひらめくものがありました。
関係する場所は、中谷酒造のある郡山から西に見える生駒山の周辺です。まず富雄川を北に遡り、ニギハヤヒ降臨の磐船神社に至ります。生駒山北麓をまわって生駒山の西側の日下、枚岡神社を経て南下。
大和川に至ると東に転じ、生駒山の南麓を越えて竜田に至り郡山に戻る生駒山周回コースを車で回りました。
枚岡神社が「出雲井」にあること、境内に古い井戸跡があることも解りました。出雲神話と現実の歴史が繋がり、像を結びました。
書き上がったものは、矛盾無く全てを包み込む推論に仕上がりました。楽しんでいただけたことと思います。今後も、時々歴史を題材に書いて行きます。
この号終わり