第1話 死んだはずだよおトミさん・前編

投稿日:2009年8月07日

歌舞伎座

死んだはずだよおトミさん・前編

 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の洗い髪
   死んだ筈だよ お富さん~♪
   生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん
 エーサオー 玄治店

 春日八郎が歌った「お富さん」は、昭和29(1954)年に発売され空前の大ヒット。昭和40年代になっても「のど自慢」で歌う人が多く、中高年には馴染みの深い歌です。歌詞は、歌舞伎「与話情浮名横櫛」(よはなさけうきなのよこぐし)が題材です。

 小間物問屋の若旦那がヤクザの親分の妾お富と道ならぬ恋に落ち、それが発覚して簀巻きにされて海へドボン。お富も海に身を投げます。若旦那はかろうじて生き延びたのですが、流れ者になります。三年後、盗みに入った家でお富と奇跡の再会をします。このシーンを歌ったものです。若旦那もタフですが、おトミも大したもんやったんですね。

1.神武東征

 古事記では、九州からヤマトを目指した神武(じんむ)の船団は、浪速を超えて最初に白方(しらかた)の津に至り、そして日下(くさか)の蓼津(たでつ)で船から盾を取りだし戦闘になります。日本書紀は、草香邑(くさかむら)の白方の津に着き、生駒山越えで奈良盆地西端の竜田(たつた)を目指したが道が険しく、その途中でクサエ坂の戦いになります。

2.上陸地

天の磐船大岩(磐船神社)
天の磐船大岩(磐船神社)

 日本書紀は、神武を初代天皇とすると共に第十代崇神(すじん)もハツクニシラス、即ち初めてヤマトを治めたとしています。「日本」を古く見せる為の工夫の一つで、東征過程を神武の名で書き、架空の8代を挟んで、統治開始を崇神の名で書いています。

 東征の時期は、ヤマトの桜井市付近に前方後円墳が出現して弥生時代が終わる直前のはずですから3世紀後半のことです。今日、大阪平野と呼ばれる大阪府中央部は、大和川水系と淀川水系の河川水が注ぎ込み、河内湖(かわちこ)という大きな湖を形成していました。湖から大阪湾への水の出口に南から突き出していた半島が現在の上町台地(うえまちだいち)。その北端が浪速(なにわ)です。

 先ず上陸を目指した白方の津は、現在の枚方(ひらかた)市にあった淀川下流域左岸の平潟のことでしょう。主力が上陸するのは、河内湖東岸の日下という比較的大きな集落の港・蓼津です。日下は東大阪市日下町周辺。蓼津は、盾津(たてつ)。昭和の町村合併で地名は消えましたが、東大阪市鴻池新田のあたり。日下町のすぐ西です。

3.おトミさん

近鉄富雄駅高架
近鉄富雄駅高架

 船団が最初に枚方を目指したのには理由があります。神武に侵略される側が祀るニギハヤヒ神の聖地が近かったのです。

 神武を迎え撃ったのは、登美ナガスネヒコ。トミは、富雄、富雄川、登美ヶ丘のトミであり、奈良市西部に地名が残ります。その人々が神として祀ったのがニギハヤヒです。枚方から南に天の川を10キロほど遡ったところにニギハヤヒが天から岩の船に乗って降り立ったとされる磐船(いわふね)の聖地があるのです。今日、交野市私市(かたのしきさいち)の磐船神社には巨大な岩が祀られています。そこから緩やかな岡を越えれば富雄川の流域になり、ヤマトの平野(奈良盆地)北西部に入ります。枚方から富雄までは15キロの道のりに過ぎません。

竜田川(竜田大橋の東)
竜田川(竜田大橋の東)

 日本書紀によれば上陸した軍団は山越えで竜田を目指します。竜田は奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)に地名が残ります。奈良盆地の西の端、大和川に富雄川が合流する地点のすぐ西側です。「ちはやぶる 神世もきかず 竜田川 唐紅に 水くくるとは」(在原業平)。今日に至るまで紅葉の景勝地として有名です。

4.太陽信仰

 日本書紀によれば、ニギハヤヒは太陽神アマテラスから十種の神宝を与えられ交野に降り立ちます。ニギハヤヒ信仰は、太陽信仰を含んでいました。それは登美ナガスネヒコの主要拠点と思われ、戦場に近い「日下」(くさか)の地名からもうかがえます。古事記は「日下」ですが、日本書紀では「草香」としています。「日下」を「クサカ」と読むのは、「飛ぶ鳥の明日香」から「飛鳥」(あすか)という読みが生まれたように、「日の下(ひのもと)の草香」から生まれたと推測されます。

 戦いに敗れた神武の船団は紀伊半島南部に至り、熊野に上陸。吉野を超えて南からヤマトに入ります。トミ一族は、神武が太陽神アマテラスの子孫であることを知り、服従します。

5.枚岡神社

 日下町三丁目交差点から南に2キロ半、枚岡(ひらおか)神社の一の鳥居があります。枚岡神社が祀るアメノコヤネは、太陽神アマテラスが天岩戸(あまのいわと)に隠れた時、祝詞(のりと)を読んだとされる中臣氏の始祖神です。太陽の復活を祈る者、即ち太陽神の祭祀を執り行っていた家系が中臣氏だったというのです。奈良時代、藤原氏が春日大社を造るにあたってこのアメノコヤネを春日大社に分祀します。このことから藤原氏の祖先の中臣氏と枚岡の深い関係が指摘されてきました。

 ここで気が付くのが、「中臣」を「ナカトミ」と読むことです。「臣」は「オミ」であり「トミ」ではありません。「臣」が「トミ」であるならば、元々ここにはニギハヤヒ信仰の拠点があったと考えることが可能になります。トミ一族が征服された後は太陽神をニギハヤヒの名称で祀り続けることははばかられます。そこで、その祭祀を行っていたトミ王家の氏神アメノコヤネに置き換えることで擬似的なニギハヤヒの祭祀を継続できたと考えても違和感はありません。中臣は、トミ王家の後裔と考えても良さそうです。

 尚、近くにヒギハヤヒそのものを祀る石切神社がありますが、こちらの成立は時代が下るように思えます。

前編終わり