前章では天武天皇が造った二つの神宮の内、石上神宮について述べました。この章ではもう一つの伊勢神宮について論じます。
天皇の代替わり毎に都を移転することを歴代遷宮(れきだいせんぐう)と言います。武澤秀一氏はその著書「伊勢神宮と天皇の謎」の中で、歴代遷宮に代わるものとして伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)が始まったとしています。
「七世紀末、伊勢神宮において式年遷宮がはじまったころ、『皇孫』としての天皇の座は『皇祖』によって根拠づけられるようになっていた。『皇祖神』を設定しなければ、大王一族の単なる世襲による王位独占となってしまい、正統性を欠くからである。天皇をオーソライズする『皇祖』の存在を明確にするものとして、これをまつる伊勢神宮が『再スタート』していたのである。」
即ち、伊勢神宮が「再スタート」する前は天皇の代替わり毎に宮殿を造り替え、正統な後継者であることを世に知らしめていましたが、「再スタート」後の伊勢神宮は皇祖神(こうそしん)を祀る神殿を定期的に建て替え続けることで皇祖神は永続的な命を得、天皇は代替わりしようとも皇祖神の子孫として日本を統治する正統性を維持できるという仕組みです。この仕組みのできた過程を追ってみましょう。
1.皇太子殺し
天武天皇は天智天皇の娘二人との間に皇子を成します。姉の大田皇女との間に生まれたのが大津皇子(おおつのみこ)、妹の持統(じとう)天皇との間に生まれたのが草壁皇子(くさかべのみこ)です。
持統は我が子草壁皇子を天皇にしたかったに違いありません。天武天皇崩御から間もなく、謀反の嫌疑をかけ大津皇子を死に追いやります。
中国では次期皇帝を「皇太子」と定める制度がありました。日本書紀では天武天皇10年(681)に草壁皇子を皇太子にしたとあります。ところが、天武天皇12年2月に大津皇子が「始聴朝政」(国の政治を行い始めた)と記します。皇太子が決まっているのに別の皇子に政治を任せるでしょうか。
天武天皇の世に日本書紀の元になる歴史書はほぼ完成していたはずです。持統は大津皇子を死に追いやった後、急遽「草壁皇子を皇太子にした」との記述を挿入させたものの、大津皇子の「始聴朝政」の記事を見落とし、消し忘れたのでしょう。実際に「始聴朝政」した大津皇子こそ皇太子でした。
写真1:大津皇子を葬ったと見られる鳥谷口古墳(葛城市染野)
写真2:同石棺(寄せ集めの石で組まれている)
2.アマテラスの創造
天武天皇崩御の時点で国史編纂事業はほぼ完成していたであろうことを前章で述べました。持統は日本の国造りを進めた偉大な天武天皇の皇太子を死に追いやりましたので、正統性が揺らいでいます。自身、それに草壁皇子の正統性を高める必要に迫られました。そこで皇祖神アマテラスの創造を思いつき、それを日本書紀に追記したと私は推測します。
日本書紀を見てみましょう。巻第一「神代」には神話が書かれています。イザナギ・イザナミの夫婦神が日本列島を生み、山川草木を生みます。最初に生んだ神は日の神オオヒルメ、次いで月の神ツクヨミです。夫婦は次々と神を生みますが妻イザナミは火の神カグツチを生んだ時に焼け死にます。ところがその後、夫イザナギは一人で太陽神アマテラス、月の神ツクヨミを生むのです。
大地、草木、太陽、月の順に夫婦神が生んでいく、この流れは自然です。かたやイザナギが男やもめになってからオオヒルメとは別の太陽神アマテラスを新たに生み、月の神ツクヨミを重ねて生むなど大変不自然です。アマテラスは、持統、それに記紀の編纂を進めていた藤原不比等が急遽創造し、書き加えた神と推測できます。以下、この推測を前提に追っていきます。
3.皇祖母尊
持統と時の権力者・藤原不比等は皇祖神アマテラスを創造し、歴史書に書き加えました。そしてアマテラスと持統天皇、そしてそれ以降の皇統との関係を書き込みました。その時、「皇祖母尊」(こうそぼそん)、「皇孫」(こうそん)という言葉を作り出します。
第六章にも書きましたが、日本書紀は皇極天皇を「皇祖母尊」と呼び、皇極天皇を天照(アマテラス)大神に擬して特別な地位に置きます。そして孫の大田皇女と建皇子は「皇孫」とします。この二人の父親は天智天皇。即ち、天智天皇の子孫を皇祖神アマテラスに直結した神聖な系列に置く意図がうかがえます。皇極天皇-天智天皇の後、持統天皇-草壁皇子-文武天皇という直系継承の流れが正統化されました。
4.天武の伊勢神宮
創造したアマテラスは歴史書の中に存在するだけでは現実味が足りません。アマテラスを祀る神殿を造り、可視化させねばなりません。伊勢神宮の再スタートです。
先ずは再スタート前の伊勢神宮の形を明確にしましょう。
伊勢神宮を創建したのは天武天皇です。その時点では斎宮(さいぐう)を以て伊勢神宮としていました。日本書紀は第11代垂仁天皇の時代にアマテラスを宇陀、近江、美濃を経て伊勢に移したとしますが、事実とは異なります。
なぜなら太陽神を祀った檜原神社(ひばらじんじゃ。桜井市三輪)、移動した道中にある長谷寺、室生寺、それに伊勢神宮斎宮(さいぐう)跡(三重県多気郡明和町)は何れも同一緯度上にあり(注1)、長谷寺と室生寺の起源は天武天皇の時代とみられ、斎宮も発掘調査から天武天皇の頃に始まったことが判明しているからです(注2)。
天武天皇は斎宮の中に神器、即ち太陽神を象徴する鏡を祀ったのみで、今日ある場所には伊勢神宮は建設していません。太陽神の名はイザナギ、イザナミの夫婦神が生んだオオヒルメだったはずです。「オオ」は美称。「ヒ」は「日」、即ち太陽。「ル」は格助詞「の」の古語。「メ」は「女」。太陽の巫女(みこ)を意味します。
とすれば、オオヒルメは、斎宮の主である斎王(さいおう)をも指していたと考えられます。初代斎王は、天武天皇の娘で大津皇子の姉にあたる大来皇女(おおくのひめみこ)が選ばれました。天武の娘は神。神の父・天武も神ということになります。
注1:小川光三氏が発見した「太陽の道」(「大和の原像 知られざる古代太陽の道」大和書房1973年)。詳しくは第十五章で述べる。
注2:崇神王朝(3世紀初から4世紀末まで約200年間)14天皇の記紀の記述について。初代神武(じんむ)は神話混じり。第2代綏靖(すいぜい)から第9代開化(かいか)までは事績や物語がほとんど書かれておらず「欠史八代」(けっしはちだい)と呼ばれる(第九章18.歴史の延長をご参照下さい)。第10代崇神から14代仲哀までは5世紀から7世紀の情況を織り込んだ内容が多く信頼性に欠ける。おそらく崇神王朝の記録は第15代応神天皇に始まる物部王朝に受け継がれず、記紀或いはその基になった天武天皇の歴史書編纂にあたって、適宜創作した事績で埋めたものと筆者は考えている。即ち崇神王朝の歴史は記紀で追えず、専ら考古学に頼らざるを得ない。
5.持統の伊勢神宮
次は再スタート後の伊勢神宮です。
持統天皇と不比等は、鏡を祀る宮・斎宮とは別に、あたかも神そのものが実在するかのように見せる神殿建設を思い立ちました。
新たに造ったというのでは権威や正統性を高める効果はありません。遙か昔から存在し、建て替えを続けてその時代に至っていることにしなければなりません。斎宮南東には手つかずの照葉樹林に覆われた丘陵地が広がっていました。
古代を連想させる適地です。建物は、弥生時代から続く独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)を持った高床式倉庫の形態を採りました。今日に続く内宮(ないぐう。注)です。神の実在を強調する為に神に食事を提供する豊受(とようけ)神を祀る神殿・外宮(げぐう)も二年後に建てます。それが今日に続く伊勢神宮の創建です。
持統は即位の年、持統天皇4年(690)9月に式年遷宮を行ったと記されていますが、式年遷宮ではなく新たに神殿を造ったのです。「伊勢神宮」という同じ名称であれば区別はつきませんが、天武が創建したものは神器鏡を安置する斎宮という宮(役所)でした。
持統が創建したものはアマテラス神が住む一棟の神殿でした。その両者で「伊勢神宮」を構成したのです。二年後、外宮が加えられます。南北朝時代(14世紀前半)に斎宮が廃止されても内宮・外宮二つの神殿は建て替えが続けられ、今日に残りました。斎宮は忘れ去られ、神殿だけで伊勢神宮と呼ばれるに至ったのです。
注:「ないくう」と清音を主張する人もいるが、本来日本語は口にこもった発声で清音濁音の区別があいまいであり、筆者は特段清音にこだわらない。因みに「宮」の現代中国語発音記号は「gong」。中国語には清音濁音の区別はなく、「g」は口にこもった発声、「k」は息が出る発声を表す。
写真3:伊勢神宮皇大神宮前階段
写真4:伊勢神宮皇大神宮(アマテラスが住む神殿)
6.持統のあせり
持統が大津皇子を死に追いやってから二年半後、持統3年(689)4月、次期天皇と期待した我が子・草壁皇子が早逝(そうせい)します。
持統の吉野宮(奈良県吉野郡吉野町宮滝)行幸が始まります。吉野は中国から入って来た道教の聖地とされていたようです。最初の行幸は草壁皇子が亡くなる三ヶ月前。草壁の病気平癒を祈ったのでしょう。
残念ながら草壁皇子は亡くなります。持統は大津皇子の祟りと怖れたに違いありません。持統は孫(草壁皇子の子。後の文武天皇)の成長を待たなければなりません。
孫まで死なせる訳には行きません。頻繁に吉野宮への行幸を繰り返し、祈ります。持統天皇4年から同10年まで年平均4回です。この間、持統天皇4年(690)正月、伊勢に神殿が完成します。日本書紀によればこの年に恒久的首都・藤原京への遷都を決意し、もはや天皇の代替わり毎に宮殿を造り替える必要はなくなりました。
持統天皇11年(697)2月、文武は無事天皇に即位します。同年4月、持統は吉野へ行幸します。お礼参りと思われます。これ以降は一度だけ行幸するのみで吉野行きは止みます。
写真5:吉野宮跡(吉野郡吉野町宮滝)
写真6:吉野宮復元模型(吉野歴史資料館)
第八章 終わり