第五章 天武天皇

投稿日:2018年2月10日

 天智天皇(38代てんち)崩御の後、壬申の乱に勝利して即位した天武天皇(40代てんむ)天皇。初めて「天皇」の称号を用い、八色の姓制度による新たな身分秩序を確立して皇族の地位を高めました。

 国号に「日本」を使用し、歴史書の編纂にも着手しました。新羅や唐の都にならって恒久的な碁盤目状の道路に区切られた大首都・新益京(あらましのみやこ。通称藤原京)の建設を始めました。飛鳥浄御原律令を制定しました。日本を強力な中央集権国家に変貌させたのが天武天皇です。

 日本書紀の記述で天武は、「天命開別天皇(天智天皇のこと)同母弟也」。天武は天智の同父母の弟とされています。しかし、兄である天智天皇より年上であるとする研究も多々あり、天智の娘を四人も妻にしていることは同父母兄弟とすれば不自然です。

 私が尊敬する井沢元彦氏の著書「逆説の日本史2古代怨霊編」を読み返している内にその正体についてひらめくものがありました。同書の助けを借りながら真実に迫ります。

1.不審な点

 日本書紀は天武天皇が編纂を始め、奈良時代初期に時の権力者・藤原不比等(ふひと)が完成させたものです。40人の天皇に、応神(おうじん)天皇の母・神功(じんぐう)皇后の事績を加えて41人分の伝記で構成されますが、天武天皇の伝記はページ数にして1割強を占めます。にもかかわらず年齢を確定できる記述がありません。これは故意に記載されなかったとみるべきです。

 天皇家は物部の血を維持する為に近親婚を繰り返しました。実に天智と天武の父母である舒明(じょめい)天皇と皇極(こうぎょく)天皇は同父母の兄妹です。天智と天武が兄弟としても、兄の娘を弟が四人娶るというのはいくら何でも多すぎます。

2.同父母兄弟ではない

泉涌寺大門

 天皇家の菩提寺・泉涌寺(せんにゅうじ。京都市東山区泉涌寺山内町27)には、天武の血を引く天皇、即ち天武から称德(しょうとく)天皇まで七人八代(孝謙天皇が重祚して称德天皇になったため)が祀られていません。38代天智天皇の次は、これら七人を飛ばして、天智の孫の49代光仁(こうにん)天皇、その子の50代桓武(かんむ)天皇に続きます。

 この事実は、非兄弟説を唱えた小林恵子氏が発見されたそうです。天皇家にとって天武は異質な存在であり、その子孫も同様に考えられてきたことが解ります。

 年齢を故意に隠したということは、実は天武が年上であったことを意味しそうです。年上の同父母兄弟ならば天智より先に即位するのが普通です。即位順序が後ということは、天武は天智と同父母兄弟ではないということです。

泉涌寺仏殿

泉涌寺霊明殿(天皇の位牌を祀る)

写真1:泉涌寺大門
写真2:泉涌寺仏殿
写真3:泉涌寺霊明殿(天皇の位牌を祀る)

3.候補者

系図

明日香と難波を結ぶ竹内街道(大阪府南河内郡太子町)

 天武は何者か。天智の娘を嫁にもらえるほど濃厚に天皇家の血を引き、血統の序列が高い出自であったことは間違いありません。天武は日本書紀に載っている天皇家の人々の中にみつけることが可能かもしれません。

 継体天皇を初代とする蘇我王朝の王位継承において、四世代目が飛んでいますので、天武の血筋をたどる上で候補になるのは五世代目の舒明、皇極、孝德の三天皇の何れかを父母とする皇子に絞って良いはずです。

 先ずは孝德天皇。孝德は645年、乙巳の変で蘇我本家が滅ぼされた後、皇極を継いで天皇になります。都を難波に移しましたが一人見捨てられ654年に孤独死。一人の男児・有間皇子は658年に謀反の疑いで刑死。

 次は皇極女帝。初婚の相手は用明天皇の孫。その間に生まれた漢王子について記録はありません(井沢氏は掲題の書の中で天武=漢皇子説に傾いておられます)。再婚相手が舒明天皇。その間に中大兄(なかのおおえ。後の天智)、大海人(おおあま。後の天武)の二皇子が生まれたことになっています。

36代孝徳天皇陵(大阪府南河内郡太子町)

 最後に舒明天皇。皇極皇后との間に生まれた天智と天武以外に、舒明は蘇我馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)を夫人とし、その間に古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子が生まれています。

 古人大兄は舒明天皇の第一皇子。即ち、天智より年上で、天皇間に生まれた天智より即位序列は下。おまけにその娘・倭姫王(やまとひめのおおきみ)は天智天皇の皇后です。有力候補と見て良いでしょう。

写真4:明日香と難波を結ぶ竹内街道(大阪府南河内郡太子町)
写真5:36代孝徳天皇陵(大阪府南河内郡太子町)

4.古人大兄皇子

 645年、蘇我本家が滅ぼされた乙巳の変の後、古人大兄は、「皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)から『古人大兄皇子が謀反を企てている』との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させた。実際に謀反を企てていたかどうかは不明である。」(Wikipedia「古人大兄皇子」)

 殺されてしまったのではこの線もなくなります。ところが、宇治谷孟訳「日本書紀全現代語訳」から引用された注書きが付いています。「古人大兄を『討たせた』結果の『死』について、日本書紀の編者は『ある本』二書に語らせるのみで、直接的言及はなされていない。」

 天武天皇の在位は673年から686年で、この間に日本書紀の元になった国史編纂事業を行わせています(第七章で述べます)。とするならば、たかだか30年前の、しかも舒明天皇の第一皇子による、謀反という重罪で、殺されたかどうか不明で、「或本」(あるほん)で死亡を推定させるというのはあり得ないことです。

 古人大兄の謀反はなく、殺されもしなかったということです。ただ史書の中で意図的に古人大兄を消し去る必要があったことは明らかです。なぜ消し去る必要があったのか。それこそ天武天皇の血筋を偽装する目的以外に理由は考えられません。

 おまけに日本書紀の古人大兄の行動は、天智崩御前の天武の行動と全く同じです。即ち、天智天皇の病が悪くなり、東宮(大海人皇子、即ち天武)に後を託そうとしたところ、それを「断り、出家して吉野宮に入った」のです。創作したパターンを安易に重複して使ったことが見て取れるのです。

 なぜ創作と言えるのか。それは井沢氏が掲題の書の中で解明した重大な事実から導かれます。それについては7.天智暗殺、8.弘文天皇で述べます。

5.天武の正体

 古人大兄皇子こそ大海人皇子、後の天武その人。古人大兄は舒明天皇の第一皇子。天智、即ち中大兄は舒明の第二皇子。但し皇極天皇との間に生まれた天智は王位継承順位が上。

 天武の娘・倭姫王は天智に嫁ぎ、皇后に。天智の娘四人は天武に嫁いだ、という交換関係です。

 ここで天武の血筋を偽装した理由に迫る前に、天智の娘四人を娶った理由は何か、蘇我と物部の血の比率から考察してみましょう。

 従来の系図は次の通りです。舒明、皇極、孝德の三兄弟は全て蘇我1/2、物部1/4です。舒明、皇極の近親婚で生まれた天智、天武も蘇我1/2、物部1/4です。

系図2

 見直した系図は次の通り。天武(古人大兄)は蘇我3/4、物部1/8と蘇我の血が濃厚です。天武が天智の娘を四人も娶った理由は明らかです。その間に生まれた子の血は蘇我5/8、物部3/16になります。滅んでしまった物部の血は貴重です。物部の血を濃くするためにはこれしか方法がなかったのです。

系図3

6.天武系除外の理由

 天武の正体が解った今、天武系最後の46代孝謙天皇(重祚して48代称德天皇)の血と、天智系に戻った最初の49代光仁天皇の血を比べてみましょう。

 光仁天皇は、天智の孫です。祖母、母共に蘇我と物部の血は入っていないようです。従って、混血比率は蘇我1/8、物部1/16。12.5%対6.25%、即ち2対1です。

 一方の天武系。藤原不比等は父・天智天皇と母・鏡姫王の間の子で(次章で述べます)、鏡姫王は蘇我、物部何れの血も入っていないとしますと、不比等自身は蘇我1/4、物部1/8。その女(むすめ)宮子と光明子ですが、その母は何れも蘇我、物部の血を引いていないとみて、蘇我1/8、物部1/16とします。孝謙天皇の比率は、蘇我9/32、物部5/64。28.125%対7.18%で、蘇我比率が物部の3.6倍と圧倒的に高くなっています。

 物部との対比で見る限り、蘇我比率が高すぎることは問題です。蘇我本家と天皇家の対立の結果、聖徳太子一族の血が絶えました。天皇家は645年、乙巳の変でこれに報い、蘇我本家を滅ぼしました。天皇家は蘇我の血が濃すぎることを許さなかったのです。

系図4

7.天智暗殺

天智天皇陵

 日本書紀の記述では、天智は671年12月に近江宮で病死したとされますが、井沢氏は「逆説の日本史2古代怨霊編」の中で天智天皇暗殺説を唱えます。根拠は次の通りです。

 天智は、日本書紀に墓所の記載がない唯一の天皇です。埋葬日も殯(もがり。貴人の死後、墓に埋めるまでの間、棺を安置して魂の平安を祈る儀式)の期間も記されていません。墓は山科にありますが、特異な死に方をしたと推測できます。

園城寺(三井寺)金堂

 平安末期、皇円という僧が書いた扶桑略紀(ふそうりゃくき)。天智は馬に乗って山階(山科)に出かけ、行方不明になり、沓(くつ)の落ちていた場所を墓にしたと書かれ、意味不明ながら「殺害」の文字も見えます。

 著者の皇円は園城寺(おんじょうじ。通称三井寺)の高僧。三井寺(みいでら)は大友(おおとも)皇子の息子(天智の孫)与多王が創建した天台寺門宗総本山。天智一族とは縁が深い寺です。大友皇子の墓(弘文天皇陵)も三井寺のある一画にあります。

 従って皇円は天智一族の慰霊を行う立場の人であり、その記述は信頼に値します。天智は近江宮で病死したのではなく、山科で殺されたのです。

木幡東部の山並

 それを裏付けるのが天智天皇崩御の際に皇后(天武の娘・倭姫王)が詠んだ歌です。万葉集巻二148「青旗の木幡の上を通うとは 目には見れどもただに会わぬかも」。天智の魂が木幡(こはた)のあたりを彷徨しているというのです。

 山科盆地に発する山科川は盆地の南から流れ出て、2km南の木幡で当時は巨椋池(おぐらいけ)に注いでいました。

 巨椋池は、土砂の堆積と干拓で今はありませんが、北東から山科川、東から宇治川、南から木津川、北西から桂川、北から鴨川が流れ込む広大な面積の湖でした。大和国から見れば、木幡が山科の入口であり、木幡から北側が扶桑略紀が記す「山階」の範囲と言えます。日本書紀の記述通り近江宮で病死したのなら、魂が宮を離れた木幡の上を彷徨するのは解せません。

地蔵院(宇治市小倉町寺内32)

 宇治市小倉町の地蔵院にある「天智天皇」と書かれた碑は、かつて同町小字天皇にあり、そこが天智天皇墓との伝承があります。暗殺され、実際に葬られた場所に伝承が残ったのかもしれません。

 当時、小倉(おぐら)は巨椋池の池畔であり、木幡の4km南です。天智天皇陵(山科区御陵上御廟野町)の辺りに沓が落ちていたとしてそこが事件現場なら、小倉までの水運距離は12km。川下りですし、帆が12月の北風を受ければ三十分です。位置関係を整理すれば次の通りです。

天智天皇陵(沓が落ちていた現場)
 ↓
 ↓(山科川下り。南へ8km)
 ↓
木幡(死後の魂が「上を通う」と詠まれた場所)
 ↓
 ↓(巨椋池東岸沿い。南へ4km)
 ↓
小倉(天智天皇墓伝承地)

「天智天皇」碑(地蔵院)

 

 「天智」という諡号(おくりな)は、中国史上悪名の高い紂(ちゅう)王の持つ玉(ぎょく)のことで、紂王を象徴しています。「天武」は、紂を討って商(しょう)王朝を滅ぼし、周王朝を建てた武王を意味します。武王は紂王を殺しています。

写真6:天智天皇陵
写真7:園城寺(三井寺)金堂
写真8:木幡東部の山並
写真9:地蔵院(宇治市小倉町寺内32)
写真10:「天智天皇」碑(地蔵院)

8.弘文天皇(39代)

弘文天皇陵

 日本書紀によれば天智天皇の皇子・大友は壬申の乱に勝利した天武に追い詰められ、死に至ります。井沢氏は掲題の書の中で次のように述べます。

 「天智が死んだのは671年の12月であり、壬申の乱によって大友『皇子』が死んだのは672年の7月である。この間七か月もある。政権の動揺を抑えるためにも、大友は即位して天皇になったはずだ。」

 「もし『大友が天皇だった』と書けば、天武の反乱(壬申の乱)は、天皇への反乱すなわち『大逆』になってしまう。大逆罪というのは、どんな場合にでも絶対に許されない。」。従って日本書紀には即位した事実を書けなかったのです。

 明治政府は大友に「弘文」という諡号を贈り、「天皇」と認めています。弘文は38代天智の次の39代天皇となり、その次の天武以後、一代ずつ繰り下がりました。

 先に泉涌寺の祭祀から天武系が除外されている理由を、「天皇家は蘇我の血が濃すぎることを許さなかった」としました。蘇我本家は聖徳太子一族を皆殺しにしました。その結果、蘇我本家は滅びるのですが、その後も蘇我の血を濃くひく天武は天智を暗殺し、弘文天皇への反乱を起こし殺しました。天皇家の人々にとって蘇我の血は忌むべきものになったのです。

写真11:弘文天皇陵

9.血筋偽装の理由

 物部氏が滅んだ後、物部の血を濃く受け継いでいることが天皇の条件でした。5.天武の正体の見直し後の系図をご参照下さい。天智は物部の血を最も高い濃度で残す為に近親婚を行った父母(蘇我1/2、物部1/4)から物部の血を誰よりも濃く受け継ぎました。

 一方、天武も自身が蘇我の血をより濃くひくこと(蘇我3/4、物部1/8)を十分意識していたはずです。壬申の乱において天武の軍勢は、大友の近江朝廷側と区別するために着衣に赤い布を付け、赤旗を用いました。これは中国の漢王朝を建てた劉邦(りゅうほう)が、ライバル楚の項羽(こうう)との決戦において用いた故事に習ったことでした。中国では王朝の交代を「革命」とします。天武には「革命」によって近江朝廷にとって替わるという明確な認識があったのです。

 にもかかわらず天武が編纂させ、その死後それを改変してまとめられた日本書紀には天武の血筋について正確な事実が書かれませんでした。国史編纂の目的である「神代から万世一系の天皇に統治される偉大な日本国」の概念を打ち立てることができないからです。

 あくまでも天皇家は万世一系つつがなく引き継がれなければならないのです。天武が天智の同父母弟なら同じく物部の血を最高に受け継ぐ天皇であり、壬申の乱があったものの兄を継ぐ順当な、最も好ましい血を引く王位継承者になります。これが天武の血筋を偽装した理由です。

10.桓武の郊祀

磐船神社(交野市私部9丁目19-1)

 天智系に戻った最初の49代光仁(こうにん)天皇と百済王家の血を引く高野新笠(たかのにいがさ)との間に生まれた山部親王が即位して50代桓武(かんむ)天皇になります。第二章で述べたように物部氏は百済王家と姻戚関係にありました。天皇家にとって桓武の血は、より一層理想に近づいたに違いありません。

 桓武は延暦3年(784)、平城京から長岡京に遷都します。その一年後、河内国交野(かたの。大阪府交野市)で郊祀(こうし)を行います。郊祀とは、中国で王朝交代時に天を祀る儀式です。桓武は天武系から天智系への回帰を明確に「王朝交代」として意識していたのです。

 因みに交野市には太陽神・ニギハヤヒが降臨したとされる磐船(いわふね)神社があり、そこから天野川(あまのがわ)が流れ出ています。

 ニギハヤヒ神については第九章で述べますが、ひと言で言えば神話と歴史の中間に位置する神武天皇(初代じんむ)が生み出される前の形がニギハヤヒ神で、同神が物部氏の祖先という設定になっています。桓武天皇が交野で行った郊祀は、自身を物部王朝の正当な後継者として、物部氏の祖先とされたニギハヤヒ神を祀るものであったと私は考えています。

写真12:磐船神社(交野市私部9丁目19-1)

第5章 終わり