第四章 法隆寺と斑鳩寺

投稿日:2018年1月10日

 天智天皇の死後起きる壬申(じんしん)の乱、それにその勝者で日本を中央集権国家に変貌させた偉大なる天武天皇を述べることになりますが、その前に聖徳太子と法隆寺について考察することにしましょう。

 法隆寺は日本のみならず世界最古の木造建築です。創建は推古朝(すいこちょう)とされてきましたが、日本書紀に焼けたという記述があるため、再建されたか、創建当時のままかという論争が明治時代に起きます。

 昭和14年(1939)の発掘調査の結果、推古朝に建てられた寺院跡が現在建っている法隆寺の隣接地から発見されました。2004年には焼けた壁画片も発見されました。これを以て、再建説が確定したとされます。

 しかしこれは「再建されたか」という問いがあったが故に、推古朝に建てられた寺院跡を何の疑問もなく「法隆寺」と考えてしまった過ちでした。寺院跡を残した寺と現法隆寺、二つは名称も異なり、性格も異なる別の寺だったのです。

1.斑鳩寺

 法隆寺が本尊としてきた薬師如来像の光背に、「用明天皇の治世丙午年(586)、後の推古天皇と聖徳太子が寺と薬師如来像を造ることを誓願したものの果たせず、丁卯年(607)に推古天皇と聖徳太子の命を受け、仕え奉った(実行した)」旨、刻まれています。これが推古朝創建の根拠です。ただ、「寺」と書かれているのみで「法隆寺」とは書かれていません。

 日本書紀の記事に「法隆寺」は1箇所のみ。670年4月「災法隆寺一屋無余」(法隆寺が全焼した)です。

 一方、「斑鳩寺」(いかるがじ)の記述は2箇所あります。643年に山背大兄王(やましろのおおえのおう。聖徳太子の子)一族が「斑鳩寺」で集団自決しています。669年冬、「災斑鳩寺」(斑鳩寺が焼けた)と記されています。

 とするならば、推古朝に建てられた寺が「法隆寺」であったとする根拠は、日本書紀の1箇所しかありません。おまけにこの記事は、法隆寺使用木材の年輪測定から事実ではないことが判明しています。これについては後に述べます。

 日本書紀の「斑鳩寺」に対応可能な寺院跡は、法隆寺に隣接した遺跡だけです。即ち、推古朝に建てられたのは斑鳩寺だったのです。

2.伽藍配置

 発掘調査の結果、斑鳩寺は門・塔・金堂が一直線に並んでいたことが判明しています。これは同じく聖徳太子が建てたとされる四天王寺(大阪市天王寺区)と同じです。

四天王寺

法隆寺

 法隆寺は、門から見て左に塔、右に金堂。塔と金堂は横並びです。この先行事例として法輪寺(ほうりんじ。奈良県生駒郡斑鳩町三井)と法起寺(ほっきじ。奈良県生駒郡斑鳩町岡本)が挙げられます。

 法起寺は塔と金堂の左右が逆転しています。何れも法隆寺の北東徒歩圏内にあり、聖徳太子の子・山背大兄王と縁が深い寺です。寺名の最初に「法」の字が付いている点でも同じ系統と考えられます。

 余談ですが、梅原猛氏は「隠された十字架」(昭和47年(1972))の中で法隆寺の門の柱数が5本と奇数で、入口真ん中に柱が立つ理由を聖徳太子の怨霊(おんりょう)を封じ込める為だと主張しました。これに対して、武澤秀一氏は「法隆寺の謎を解く」(2006年、ちくま新書)で、中央の柱の左側が塔に対する入り口で、右側が金堂に対する入り口であり、その先行形態として百済大寺(くだらおおでら。桜井市吉備の吉備池廃寺)では回廊に各々の門があったことを論証されています。

法輪寺

法起寺

写真1:四天王寺
写真2:法隆寺
写真3:法輪寺
写真4:法起寺

3.斑鳩寺創建理由

 斑鳩寺遺跡の東側に斑鳩宮(いかるがのみや)がありました。聖徳太子は601年より建設を始め、605年に遷(うつ)っています。斑鳩寺金堂は、少なくとも太子が亡くなる頃までに完成したはずです。後にも述べますが、太子が亡くなった翌623年、太子等身の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)を造って安置したとみられるからです。

 推古天皇と聖徳太子は、実権を握っていた蘇我本家の影響下から少しでも逃れる目的で奈良盆地南東部の飛鳥から離れた盆地西部の斑鳩に宮を移し、天皇家を中心とした政治を行おうとしました。

 当時中国は隋(ずい)王朝の最盛期。仏教治国策(仏教を使って国を治める政策)が行われていました。都の大興にはその中心として立派な寺・大興善寺が建てられました。

 日本にも仏教治国策を導入すべく、その中心として斑鳩寺を建設したものと私は考えます。都・大興に大興善寺、都・斑鳩に斑鳩寺。都の名と寺の名が一致する点も共通です。この政策は百余年後の奈良時代、「鎮護国家」(ちんごこっか)の理念の下、総国分寺として東大寺、日本全国に国分寺が建てられ結実します。

4.遣隋使

 中国の歴史書・随書(ずいしょ)巻81列伝第46東夷倭国には次のように書かれています。

 「大業三年、其王多利思比孤(タリシヒコ)遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天使重興仏法、故遣朝拝、兼沙門数十人来学仏法」(607年、倭王タリシヒコは、中国の皇帝が仏法を盛んにしていると聞き、使者を派遣すると共に、仏法を学ぶ者を数十人同行させた)。

 五、六十人もの仏僧を一気に養成しようというのです。日本最初の本格的な仏教寺院・飛鳥寺建立が蘇我馬子により発願されてからまだ20年。天皇家も試しに寺院を建てようとしたと考えがちですが、そのレベルを超えています。

 日本書紀には書かれていませんが、随書には大業三年の7年前、600年に最初の遣隋使のことが記録されています。聖徳太子は百済から随の情報を入手し、600年に直接遣隋使を派遣して調査、607年に仏教治国策を導入する明確な意図のもと仏法を学ぶ者を数十人同行させたと推測できます。

 数十人といえば、おそらく全国に国分寺を建てる計画があったのでしょう。遣隋使は、600年から随が滅ぶ618年までの間に少なくとも5回派遣されており、仏教治国策や先進制度の導入に驚くほど積極的であったことがうかがえます。

 ところで607年は推古天皇15年ですが、「タリシヒコ」の「ヒコ」は「彦」のこと。即ち男性です。中国に女帝はおらず(後に唐王朝を乗っ取り周王朝を建てた武則天が中国史上唯一の女帝)、女帝であることを隠したものと推測できます。

5.「以和為貴」

 斑鳩宮は斑鳩寺の東側と書きましたが、東西軸は北東方向に20度ずれています。その時代の土地区画は現在の法隆寺東大門と夢殿(ゆめどの)を結ぶ道路に残っています。その道路の西への延長上700mに藤ノ木古墳があります。

 藤ノ木古墳に葬られたのは二人。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とその夫人と考えられることは第三章で述べました。二人は蘇我と物部の抗争で殺されました。推古天皇は穴穂部皇子の異母兄妹。聖徳太子は穴穂部皇子の甥(おい)にあたります。

 斑鳩宮を選定する時点で既に穴穂部皇子の墓がありました。宮と古墳は一直線の道路で結ばれていたはずで、それを遮るように宮の西側隣接地に斑鳩寺を建てました。斑鳩寺の建設は慰霊の意味が込められていたことは間違いありませんが、蘇我と物部の抗争を悔い、平和共存を願う大きな概念がそれを包み込んでいたはずです。

 日本書紀に書かれた十七条憲法は太子没後の創作とされていますが、第一条冒頭の「以和為貴」(わをもってとうとしとなす)の理念こそ太子が目指した仏教治国策の概念に通じるものだったと私は考えます。前章の繰り返しになりますが、その背景を次に確認しておきましょう。

6.蘇我と物部の争い

 5世紀、応神天皇に始まる王朝は物部(もののべ)氏が天皇でした。5世紀末、物部王朝が衰えを見せます。526年、越前と近江を拠点とした継体(けいたい)天皇が奈良盆地に入ります。継体天皇の血筋が蘇我氏です。

 物部と蘇我、何れも中国系の秦氏(はたし)の血を引く王家でした。鉄と文明を背景に日本を支配する勢力になったのです。先に引用した隋書の続きには、倭(わ。日本の蔑称)の中心を「秦王国」と書いています(第二章2.秦氏の王・応神天皇をご参照下さい)。

 継体天皇の没後、物部との抗争を経て、物部の血が半分入った欽明、次いで敏達(びだつ)が天皇位につき、蘇我と物部の勢力が拮抗しながらも46年間平和が保たれました。

 敏達の後、欽明天皇と蘇我の娘の間に生まれた、蘇我の血を3/4受け継ぐ用明(ようめい)天皇が585年に皇位を継いだところでバランスが蘇我に傾きました。争いが再燃します。

 穴穂部皇子は皇位を狙う為に物部守屋(もりや)と結んだと書かれています。用明天皇の死後、587年に蘇我本家により物部守屋と穴穂部皇子は殺されます。次に皇位に立った崇峻(すしゅん)天皇は592年に暗殺されます。夫人は物部の娘だったようです。物部氏は滅亡し、蘇我の世になりました。

系図

7.聖徳太子の血

 蘇我氏にとって物部というライバルがいなくなれば物部の血は不要ですが、崇峻の後も物部の血が入った天皇を傀儡(かいらい)として擁立しました。史上初の女帝・推古天皇です。推古を補佐したのが聖徳太子です。

 聖徳太子は異母兄妹の用明天皇と穴穂部皇女の近親婚で生まれました。出生は574年。物部氏滅亡の前です。蘇我と物部の対立の結果、妥協の産物として双方の混血の「天皇家」の概念が生まれ、その頃には既にこれ以上蘇我の血の比率を高めたくない、物部の血を維持したいという意識が働き、近親婚を選んだものと思われます。

 太子が13歳の時、叔父の穴穂部皇子が殺されます。18歳の時に叔父の崇峻天皇が殺されます。何れも母の同母兄弟でした。太子の父母、叔父、伯母、叔母、そして本人も蘇我の血が3/4、物部が1/4でした。

 物部氏の滅亡によって蘇我本家対天皇家という対立の構図が更に明確になりました。傀儡にすぎない推古天皇ですが、補佐する聖徳太子と固く団結し、仏教治国策で蘇我本家に対抗したのです。

8.山背大兄の死

 天皇家から聖徳太子という素晴らしいリーダーが生まれたのは蘇我氏の誤算でした。死後も太子の評価は上がる一方です。それにつれて太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の人望も高まったため、643年に蘇我氏は斑鳩を襲わせます。山背大兄は斑鳩寺にて夫人など一族と共に自殺します。聖徳太子の血統はここに絶えました。

 この後、天皇家の逆襲が待っていました。645年、蘇我本家が滅ぼされ天皇家の時代が始まります。

9.法隆寺創建理由

系図2

 推古天皇の後、天皇の血筋は30代敏達天皇の孫の代に引き継がれます。舒明(じょめい)天皇、皇極(こうぎょく)天皇、孝徳(こうとく)天皇の三人は同父母の兄弟で、蘇我1/2、物部1/4。次の世代の天智(てんち)天皇は、舒明・皇極の近親婚の間に生まれたため、同じく蘇我1/2、物部1/4です。これらの人々によって法隆寺は建てられました。

 その目的は聖徳太子を慰霊し、併せて蘇我氏との抗争で亡くなった天皇家の人々を鎮魂することでした。圧倒的な蘇我氏に対し、「和」を武器に果敢に挑んだ聖徳太子の評価は死後ますます高まっていましたので、亡くなった天皇家の人々の象徴として聖徳太子を強く意識していました。一言で言えば、聖徳太子をその象徴として祀る寺として建立されたと言えるでしょう。

 聖徳太子が亡くなった翌623年、太子等身の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)を造って供養していました。その像を斑鳩寺から移し、本尊として祀ります。

道路角度の変更(法隆寺東大門西側から夢殿を望む)

 法隆寺は斑鳩寺とは違う目的のために建設されました。その違いは土地区画にも現れています。先に斑鳩寺の東西軸が北東に20度ずれ、西の延長上に藤ノ木古墳があることを述べました。法隆寺を建てるにあたっては土地区画を変更し、その角度を9度にして藤ノ木古墳を結ばないようにしたのです。象徴として祀られる聖徳太子を別にして、その他の天皇家故人の平等を図る意図があったものと私は考えます。

写真5:道路角度の変更(法隆寺東大門西側から夢殿を望む)

10.法隆寺建設

 2004年に奈良文化財研究所が発表したデータによれば、法隆寺に使用された木材の伐採年は、金堂の天井材667年、五重塔第二層の雲肘木(くもひじき)673年、中門699年。「工事の進行に応じて順次伐採が行われていた」(武澤秀一著「法隆寺の謎を解く」)そうですので、伐採から二、三年の内に加工して使用されたはずです。そうしますと、日本書紀が「法隆寺全焼」とする670年には金堂がほぼ完成しており、その後五重塔、中門の順に建てられたことが解ります。

 一方、五重塔の心柱の伐採年は594年です。心柱には真っ直ぐで長い一本の檜(ひのき)材が必要で、このような木は少なく、大変貴重です。斑鳩寺の塔を一旦解体し、心柱を再利用したものと推測できます。

 これらの事実により、日本書紀が記す唯一の「法隆寺」全焼の記事は事実では無く、特別な意図の下に書き加えられたことが判明したのです。

11.全焼記事の意図

 法隆寺には太子等身の釈迦三尊像を斑鳩寺から移しました。又、斑鳩寺の塔の心柱も再利用しました。斑鳩寺と法隆寺は近い関係とみられてしまうおそれがありました。それをどうしても断つ必要があったのです。なぜか。

 答えは簡単。汚れ無き寺にしたかったからです。斑鳩寺では山背大兄一族が大量自死しています。読者の皆さんも自身に置き換えて考えてみて下さい。自殺者を出した中古住宅に住もうと思うでしょうか。自殺者の数が多かったとすればどうでしょうか。

 「法隆寺」と名付けられた寺の建設が決まり、その金堂が完成し、斑鳩寺から釈迦三尊像を移し、再利用の心柱を抜いたところで斑鳩寺は焼却されたのです。これが日本書紀669年冬の記事「災斑鳩寺」(斑鳩寺が焼けた)と考えられます。

 そして約半年後の翌年4月に法隆寺全焼の記事を書き加えました。斑鳩寺が焼けてから程なく法隆寺が全焼したのであれば、法隆寺は一から再建されたことになります。こうして斑鳩寺の汚れが、後世に残る法隆寺に受け継がれる客観的な可能性を一掃することができたのです。

12.混同の原因

釈迦三尊像(法隆寺パンフレット)

 法隆寺には二つの本尊仏があります。一つは聖徳太子の死後、太子等身に造られた釈迦三尊像。もう一つは薬師如来像。本章の最初に書いた通り薬師如来像の光背には、聖徳太子がこの像を「寺」と共に造ったと解釈できる文章が刻まれています。制作年を西暦に直すと607年。この像は当初から法隆寺にあったとみられることから、法隆寺が実際より60〜100年古く見られ、ひいては斑鳩寺と混同される原因となったものです。

薬師如来像(法隆寺絵葉書)

 刻まれた文章には「天皇」の文字があります。「天皇」という称号を使い始めるのも、薬師如来信仰が始まるのも天武天皇の時代、670年代のことです。実際には天武朝の建設中断期間をはさんで、おそらく690年頃にこの像は造られました。これは日本書紀の構想を時の権力者・藤原不比等(ふじわらふひと)が練っていた時期にあたります。藤原不比等については第六章で述べます。

 法隆寺は聖徳太子を祀る為に建立されたのですから、本尊仏は太子等身の釈迦三尊像で足りるはずです。なぜ法隆寺建立に併せてもう一つの本尊・薬師如来像を造る必要があったのでしょう。

写真6:釈迦三尊像(法隆寺パンフレット)
写真7:薬師如来像(法隆寺絵葉書)

13.二つの本尊の理由

 日本書紀を編纂させた藤原不比等は、特別な意図の下に670年に「災法隆寺一屋無余」(法隆寺が全焼した)の一文を入れさせました。ならば、創建時期をそれよりも前に設定しなければなりません。では何時にするのか。そしてそれをどういう形で記録に残すのか。

 先ずは時期。建設にかかる期間を除いてそれ以前でさえあれば良いのですから、必ずしも聖徳太子が建てる必要はありません。しかし法隆寺の性格上、太子との縁(ゆかり)が深いに越したことはありません。そこで推古天皇と太子が建てたことにしました。

 次は記録方法。「本尊仏」として薬師如来像を新たに作り、その光背に刻むことにしました。本尊仏は寺で最も重要なものであり、大切にされ、後世に残るからです。

 薬師如来像は、創建年を偽造し、それを後世に残す目的で作られました。薬師如来像の光背銘文は、日本書紀の全焼記事といわば一対を成すものだったのです。後の世に全焼記事との矛盾に気付く人が出たとしても、書物より現物が優先する常識を以て乗り切れると考えたはずです。

 事実、斑鳩寺は忘れ去られ、光背銘文を根拠に法隆寺創建を推古朝とし、仏像を持ち出して被災を免れたという解釈がなされ、或いは全焼記事が疑われてきたのです。

14.光背銘文解釈

 読者の皆さんは前段最後の「全焼記事が疑われ」をお読みになって、「血塗られた斑鳩寺との関係を断つ為にせっかく挿入した全焼記事が疑われたのでは、意味が無い」と考えられたかもしれません。もう一つ踏み込んでおきましょう。

 先に書いたように光背には、「用明天皇の治世丙午年(586年)、後の推古天皇と聖徳太子が寺と薬師如来像を造ることを誓願したものの果たせず、丁卯年(607年)に推古天皇と聖徳太子の命を受け、仕え奉った(実行した)」旨、刻まれています。

 今日まで主流の解釈では、「寺」を「法隆寺」、「仕奉」の内容を「法隆寺建立と薬師如来像の製作」としてきました。このように解釈されることは、この薬師如来像を造らせた藤原不比等の意図したところでした。

 ところがこの文章には「寺」と書かれているのみで「法隆寺」とは書かれていませんし、よく読めば「仕奉」の内容に寺が含まれていない可能性もあります。確実に読み取れるのは、現に文字が刻まれている「薬師如来像の製作」だけなのです。

15.時間差効果

 法隆寺完成は、中門の使用木材伐採年が699年であることから見て705年頃のはずです。その頃、光背を見る人は限られているとは言え、聖徳太子が「法隆寺」を建てたと書けば見え透いた嘘になります。一方、「寺」ならば斑鳩寺を連想する人がいたとしても、「斑鳩寺とは関係なく、薬師如来像だけ造った」と説明すれば斑鳩寺の汚れと切り離せます。当時の人は、聖徳太子が造らせた有り難い薬師如来像を、焼けた斑鳩寺以外のどこかの寺から移したと解釈したはずです。

 斑鳩寺を知る当時の人の目さえごまかせば良かったのです。斑鳩寺のことを知る人がいなくなればその汚れも忘れ去られます。日本書紀を読んだところで斑鳩寺と法隆寺の繋がりについては何も書いていません。

 全焼記事が疑われようとも何の問題も起こらないのです。光背銘文は、当時の人の目をすり抜け、後世の人に対して太子との縁を深め法隆寺の価値を高める効果を発揮するよう計算された巧妙な文章だったのです。

16.建設中断の謎

本薬師寺跡

 最後にもう一つの論点です。

 昭和の解体修理で塔の構造部分から風雨にさらされた痕跡がみつかりました。建設が中断し放置されたとみられます。先に五重塔の第二層雲肘木の伐採年を673年と書きましたが、その後のことです。丁度、天武天皇の時代(在位673-686)が中断時期にあたります。天武天皇は、法隆寺建設の熱意がなかったのでしょうか。

本薬師寺東塔礎石

 私は色々考えてみたのですが、藤原京の造営、本薬師寺(もとやくしじ)の建設を優先した結果に過ぎないと結論を出しました。

薬師寺東塔

 本薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立したものです。藤原京右京八条三坊全域を占める巨大な寺でした。正確に都の区画に合わせて立地しますので、藤原京の建設も同時期に進められていたことが解ります。

 藤原京は日本最初の恒久的首都として建設が始まったもので、その後の平城京や平安京より面積が広かったことが発掘で判明しています。本薬師寺は、奈良時代に建てられる薬師寺(奈良市西ノ京町)とほぼ同規模で、平城京遷都後も11世紀までこの地(奈良県橿原市城殿町)に残りました。

写真8:本薬師寺跡
写真9:本薬師寺東塔礎石
写真10:薬師寺東塔

第四章 終わり