第二章 物部王朝<前編>

投稿日:2017年9月10日

 2世紀に弥生文化が崩壊した後、主たるクニの話し合いでヒミコを王に擁立し纏向を首都とした新しい連合国・ヤマトが3世紀初頭に建てられました。私はこの王朝を崇神王朝と呼びます。

 記紀の記述を見ますと、神話時代と歴史の境に位置する初代神武天皇の後、第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化(かいか)天皇までは事績や物語がほとんど書かれていません。これを「欠史八代」(けっしはちだい)と言います。第10代崇神(すじん)が実質上の初代天皇で、記紀も神武天皇と同じく「ハツクニシラス」(初代天皇)とします。

 崇神王朝は栄え、奈良盆地に日本最初の前方後円墳群を残しました。しかし4世紀末の仲哀天皇(14代ちゅうあい)の後、応神天皇(15代おうじん)に取って代わられます。

応神天皇陵(誉田八幡宮境内展示パネル)

 応神天皇に始まる新しい王朝を私は物部王朝と呼んでいます。はじめにに書きましたが、古事記では履中天皇(17代りちゅう)の形容に「物部」を使用しており、それは天皇が物部氏であることを意味しているからです。

 記紀の記述が充実するのは第10代崇神天皇からですが、その寿命は120歳。11代垂仁(すいにん)は140歳、12代景行(けいこう)は106歳といった具合でにわかには信じられません。記紀を基礎とする私の探索は15代応神天皇、即ち物部王朝から始まります。

 崇神から物部へと王朝が替わった事はその前後で古墳の規模や副葬品が一変することで解ります。生活レベルでも大規模な灌漑土木工事が行われたり、須恵器(すえき)と呼ばれる高温で焼かれた灰色の土器の使用が始まったり、大きな変化が見られました。

 日本書紀は日本の歴史を古く長く見せるために(第九章で詳しく述べます)、応神天皇即位を西暦270年にしています。しかし物部王朝を特徴づける巨大前方後円墳、大土木工事、大量の鉄製品と馬具、須恵器は5世紀初に始まることが確定しています。王朝が始まったのは紀元400年頃と言えます。

 応神は北部九州から東征して大和国に入りましたが、最大の特徴は秦氏(はたし)と呼ばれる中国系帰化人と共にやってきたことです。

写真1:応神天皇陵(誉田八幡宮境内展示パネル)

1.秦氏

 秦氏とは、中国最初の統一王朝・秦(しん。前221-前206)の時代、朝鮮半島南東部に移住した中国人集団で、4世紀の新羅(しんら)建国に伴い朝鮮半島南西部の百済(ひゃくさい)経由で九州、そして日本各地に移住してきたものです。

 秦氏は、機(はた)織り、畑(はた)作に優れていました。それ以外にも金属加工、治水、土木、建築、商業、窯業、醸造他、多くの分野で高度な技術と知識を持ち、それらを文化と共に日本にもたらしました。

 その秦氏を率いてヤマト国の中心に入った応神天皇自身が秦氏であったと私は考えています。豊富な鉄と高度な技術を背景に日本を支配する勢力になったのです。

2.秦氏の王・応神天皇

 応神天皇が秦氏であったという理由を以下に二つ挙げます。

 日本書紀に記載されている応神天皇のおくり名(本名ではなく、死後おくられた名。15.倭の五王で述べるが、雄略天皇の場合、稲荷山古墳出土鉄剣の文字から生前の呼称がおくりなとなったことが判明)「誉田別」(ホムタワケ、或いはホンダワケ)の検討から始めましょう。最後の「ワケ」はこの頃の天皇の敬称のようです。

 応神天皇が開いた王朝の天皇一覧を次に記します。左の天皇名は奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名、右が日本書紀のおくり名を片仮名にしたものです。天皇の呼称を実際に使い始めたのは天武天皇(40代てんむ。在位673-686)ですが、それ以前の大王(おおきみ)にも「天皇」を使うのが慣例です。

 15代 応神天皇 ホムタ「ワケ」
 16代 仁徳天皇 オホサザキ
 17代 履中天皇 イザホ「ワケ」
 18代 反正天皇 ミズハ「ワケ」
 19代 允恭天皇 オアサヅマ「ワク」ゴ
 20代 安康天皇 アナホ
 21代 雄略天皇 「ワカ」タケル
 22代 清寧天皇 シラカ
 23代 顕宗天皇 「ヲケ」
 24代 仁賢天皇 「オケ」
 25代 武烈天皇 「ワカ」サザキ

 この王朝は天皇のおくり名を決めるにあたって、「ワケ」を天皇の敬称として使ったことは間違いなさそうです(「ヲケ」のヲはワ行であり「ワケ」とほぼ同音。「オケ」も同音とみる。「ワク」と「ワカ」は後ろに名詞が来るため語尾が変化したと推測)。

 では、「ホムタ」は何を意味するのか。現代の日本語の発声は一音ずつ明快ですが、古代は口にこもった発声でした。筆者の祖父もそうでしたが、今でも奈良県や三重県にはそんな発声方法の人がいます。神主が祝詞(のりと)を上げる時や能、狂言にも口にこもった発声が残っています。「ホムタ」は「ハタ」の古代の発音です。ホムタワケとは、秦大王(はたおおきみ)、即ち秦氏の王を意味するのです。

 もう一つの理由。中国の歴史書・隋書(巻81列伝第46東夷倭国)には、「竹斯国又東至秦王国 其人同於華夏 以為夷州疑不能明也(中略)自竹斯国以東,皆附庸於倭」(筑紫国の更に東、秦王国に至る。その国の人は中国人と同じ。蛮族の国とする理由は不明。筑紫国以東は皆倭に属す。)と書かれているからです。倭(わ。日本の蔑称)の中心は「秦王国」でした。「秦王国」とは、中国の秦(しん)王朝の時代に朝鮮半島に移住した「秦人」(しんじん)を称する中国人の後裔が建てた国であることを意味します。

 応神天皇は秦氏の王でした。とすれば一つの疑問が浮かびます。秦氏、即ち中国人なら必ず持つ姓を天皇家は持たないことです。日本の大王になるにあたって姓を消したのでしょうか。それもあり得ます。

 ただ私は、ヤマト国が征服される十年ほど前の391年に倭が海を渡って朝鮮半島南部を制圧している事実(広開土王碑文。以下に述べます)があり、その倭を率いた人物が応神天皇と推定できることから、応神の父は倭人(日本人)、母が秦氏(中国人)である可能性が高いと考えます。

 北部九州の倭人の有力者が秦氏の王女を娶り、その間に生まれた王子が秦氏の王・応神天皇ではないか、ということです。こう申しますと読者の皆さんは倭人と秦氏の婚姻関係があり得たのか疑問を感じられるかもしれませんが、それは当時の朝鮮半島の民族分布を知れば納得いただけます。詳細は、7.百済との関係で述べます。

 因みに日本書紀では応神天皇の父は仲哀天皇(14代ちゅうあい)という実在性の乏しい人物、母は神功皇后(じんぐうこうごう)という架空の人物です。神功皇后は仲哀崩御後、応神天皇即位まで64年にわたって国を治めたことになっています。神功皇后が行ったとされる三韓(高句麗、百済、新羅のこと)征伐は応神天皇と推定される倭王がヤマト国を征服する前に成し遂げた事業を反映しているようです。

 高句麗の広開土王碑文には「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残■■新羅以為臣民」(百済と新羅は旧来(高句麗の)属民であり(高句麗に)朝貢していたが、辛卯年(391)、倭が渡海し、百済、(二字不明)、新羅を破って臣民とした)と書かれています。

3.葛城氏との関係

 物部王朝を特徴付けるのは葛城(かつらぎ)氏との関係です。次の物部王朝天皇一覧にまとめましたが、葛城氏との姻戚関係が始まる二代目以降、葛城氏が妻もしくは母でない天皇は安康(あんこう)と最後の武烈(ぶれつ)だけです。安康は暗殺され、武烈は王朝を譲っています。葛城氏との姻戚関係を持つことが天皇の条件であったようです。

物部王朝天皇一覧:

世代数 天皇 特記事項
第一 15代 応神(おうじん) 九州から東征し崇神王朝を滅ぼす。
第二 16代 仁徳(にんとく) 葛城氏から皇后を迎える。
第三 17代 履中(りちゅう) 葛城氏が母。墨江中津王の反乱。
18代 反正(はんぜい) 葛城氏が母。
19代 允恭(いんぎょう)   同
第四 20代 安康(あんこう) 暗殺される。
21代 雄略(ゆうりゃく) 葛城氏が妻。百済を再興。
第五 22代 清寧(せいねい) 葛城氏が母。皇后、皇子女共になし。
23代 顕宗(けんそう) 葛城氏が母。履中天皇の孫。
24代 仁賢(にんけん)   同
第六 25代 武烈(ぶれつ) 蘇我王朝の継体天皇(第六世代)に譲る。

4.葛城ソツヒコ

 物部王朝と葛城氏の姻戚関係は二代目の仁徳天皇(16代にんとく)に始まります。

 仁徳は、葛城ソツヒコ(日本書紀では襲津彦、古事記では曽都毘古)の娘・磐之媛(いわのひめ)を皇后とし、その間に生まれた三人の皇子が順に天皇位を継ぎます。履中(17代りちゅう)、反正(18代はんぜい)、允恭(19代いんぎょう)です。

 娘を天皇に嫁がせることができた葛城ソツヒコとはどのような人物だったのでしょう。結論から言えば、記紀は意図的に記録しなかったようで手掛かりはあまりありません。それには理由があるはずです。残されたわずかな手掛かりから追っていくことにしましょう。

5.建内宿禰

 先ずはソツヒコの父。古事記によれば建内宿禰(たけしうちのすくね。日本書紀では武内宿禰と表記)というとんでもなく長寿の人です。

 どれくらい長寿かと言いますと、景行天皇(12代けいこう)から仁徳天皇(16代)まで5代の天皇に仕えました。日本書紀は景行天皇の即位を西暦71年に設定しており、仁徳天皇は西暦399年に没したことになっていますので、その寿命はもはや人類の域を超えています。

 日本書紀では孝元天皇(8代こうげん)の曾孫、古事記では孫と記します。

 ここから言えることは、建内宿禰とは王の血を引く家来を包括的に示す概念であり、架空の人物ということです。とんでもない長寿にしたのは、前王朝・崇神王朝から物部王朝まで継続して仕えた忠臣がいれば天皇の血筋を「万世一系」と偽装する補強材料になるからです。「万世一系」の偽装については第七章、第九章で述べます。

6.葛城氏のルーツ

 古事記が建内宿禰の子とする葛城ソツヒコですが、建内宿禰が架空の人物である以上この線では追えません。

 ソツヒコに関する記述は古事記になく、日本書紀に書かれたのもわずか5ヶ所。その最初と最後の記事の期間は人類の寿命を超えています。

 ソツヒコを実在の人物と考えた場合、娘を天皇の皇后にする点から見て王の血統に極めて近い人物とするのが素直ですが、それをうかがわせる記事は何もありません。

 次の系図をご参照下さい。葛城氏は仁徳、履中、雄略と三人の天皇に娘を嫁がせる家柄にもかかわらず古事記はもちろん日本国の正史である日本書紀に親族の記録がほとんどない、いわば娘を出すだけの存在です。こんなことがあり得るのでしょうか。逆説的に言えばこれが大きな手掛かりです。

系図

 実は一つだけ考えられます。それは出自が外国の場合です。日本書紀は中国にならって、日本が中国と並び立つ立派な国であることを示すために8世紀に編纂された日本国の正史です。神代(かみよ)から日本に続く天皇家に外国人の血が混じっているとは絶対に書けなかったからです。

 ではその外国とはどこか。それは百済(ひゃくさい)です。学者でもない筆者が「葛城氏は百済人だった!」などと言い出すと、素人の「トンデモ日本史」と感じられるかもしれませんが、日本書紀にはその手掛かりが残っています。

 日本書紀応神天皇39年2月の記事に百済の直支王が妹・新斉都媛を応神天皇に仕えさせた(「令仕」)とあります。天皇は媛を皇子に与えたものか、その後については書かれていません。

 雄略天皇2年7月の記事に百済の池津媛を天皇の嫁に出したにもかかわらず石川楯が手を付けてしまい焼き殺されたこと、同5年4月にそれを知った百済王は今後は媛を出さないと言ったことが記されています。百済王の媛が天皇に嫁ぐことが常態であったことを物語ります。

 百済との繋がりを追ってみましょう。

7.百済との関係

5世紀の朝鮮半島

 当時の百済は今の日本人が考える「外国」の感覚ではありません。「五世紀の朝鮮半島」地図をご参照下さい。

 3世紀の朝鮮半島南部について中国の正史「後漢書」や「三国志魏書」には、朝鮮半島南西部・馬韓(ばかん)と南東部・秦韓(しんかん。辰韓とも書く)では言語、習俗が異なったこと、秦韓人は中国・秦王朝の時代(前221-前206)に逃れてきた漢人(中国人)であることが書かれています。馬韓と秦韓に挟まれた弁韓(べんかん。後の加羅と任那)は倭人(日本人の蔑称)、穢(わい)人、韓人、秦韓人の雑居地域になっていました。

 4世紀も後半になり、先に高句麗(こうくり)を建国していた穢人が馬韓に百済を建国しました。やや遅れて北方の騎馬民族・匈奴(きょうど)が秦韓に新羅(しんら)を建国します。更に「辛卯年(391)、倭が渡海し、百済、(二字不明)、新羅を破って臣民とした」(高句麗の広開土王碑文)のです。即ち5世紀の朝鮮半島南部は韓人、秦韓人、穢人、匈奴、倭人の居住域が複雑に入り交じり、その上に建国されたばかりの百済、新羅の二国、それに日本の拠点である任那(みまな)が乗っかっているというイメージです。

 そもそも応神天皇は秦氏の王であり、北部九州を経由して秦氏と共にヤマト国に入り物部王朝を建てました。秦氏とは秦韓人(漢人)のことです。新羅から日本に至るには百済の協力が不可欠です。

 日本書紀のソツヒコの5つの記事は全て新羅との戦いか百済に関するもので、秦氏の移住を述べた次の記事もそうです。

 「応神天皇14年、天皇は帰化を望む弓月民(ゆづきのたみ。秦氏のこと)が新羅の妨害で日本に来られないことを知り、ソツヒコを派遣した。成果がないので同16年8月、精兵を新羅に差し向けソツヒコと共に連れ帰った。」

 その応神天皇16年には「百済の阿花王が亡くなり、人質として日本に来ていた直支王を帰国させ王位に就かせた」と書かれています。

 応神天皇以降も物部王朝の期間を通して日本は百済と極めて密接な同盟関係を続けます。これについては後に述べます。

地図 :5世紀の朝鮮半島

8.葛城ソツヒコの正体

 百済は高句麗と同じツングース系民族・穢人が中国東北部から南下して朝鮮半島南西部に建てた国です。一方、新羅は中央アジアの騎馬民族・匈奴(きょうど。フン族)が朝鮮半島南東部に建てた国です。両国は4世紀の建国から7世紀に百済が滅ぶまで抗争を続けました。

 百済の敵が新羅なら、秦氏の故国・秦韓を奪ったのも新羅。物部王朝と百済には協力し合う素地がありました。新羅に対抗するには盟友関係をより強固なものにする必要があったはずです。その一番の方法といえば、それは血の結束です。

 応神天皇と百済王は互いの皇子と王女の結婚を考えたのではなかったか。応神の後を継ぐ皇子は仁徳。バランスを考慮すれば磐之媛は百済王の媛ということになります。

 私は葛城ソツヒコは百済皇太子、そして百済王であったと考えます。先に引用した秦氏移住記事の「ソツヒコ」を「百済皇太子」と読み替えても筋が通ります。日本書紀は意図的な操作が多く必ずしも信用できませんが、同16年の記事の直支王がソツヒコとすれば丁度当てはまります。

 天皇家に百済王の血が入っているのなら475年頃(高句麗で12世紀に編纂された「三国史記」によるが、同書の記事は誤差がある)の百済滅亡後、雄略天皇(21代ゆうりゃく)が百済を再興した理由、660年に再び百済が滅亡した後も再興を目指して朝鮮半島に出兵した理由、何れも無理なく説明できます。

9.幻の葛城氏

葛城ソツヒコの墓と言われる宮山古墳(御所市室)

 葛城ソツヒコは百済王でした。その後天皇家に嫁ぐ「葛城」の媛もその時の百済王の娘と考えて良いでしょう。

 一方、従来の学説は葛城という地名と氏素性を結びつけ、「葛城氏」なる豪族が葛城に存在したと考えました。葛城とは奈良盆地南西部の地域名で、現在の大和高田市、葛城市、御所市(ごせし)あたりです。

同墳丘上の靫(ゆき)型埴輪(靫は矢を入れる道具)

 御所市室(むろ)にある宮山古墳は墳丘長238m。全国で18番目の規模ですから天皇もしくは天皇に準ずる人物の墓のはずです。

 ところが物部王朝の天皇墓は大阪府堺市、松原市、藤井寺市、羽曳野(はびきの)市に集中していますし、築造された5世紀初頭は日本で二番目に大きい誉田山古墳(応神天皇陵。墳丘長425m。羽曳野市誉田)と三位の上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵とされるが筆者は仁徳天皇陵と推測。墳丘長365m。堺市西区石津ヶ丘)の築造が行われており、対応する天皇がいません。

そこで仁徳天皇の皇后を出した葛城ソツヒコの墓とされたのです。「葛城氏」がこれだけの規模の古墳を造れたということになり、「葛城氏」は天皇家に匹敵する豪族とされました。

同横の八幡神社(応神天皇を祀る)

写真2:葛城ソツヒコの墓と言われる宮山古墳(御所市室)
写真3:同墳丘上の靫(ゆき)型埴輪(靫は矢を入れる道具)
写真4:同横の八幡神社(応神天皇を祀る)

10.葛城氏の実態

掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)説明板

 ソツヒコは百済王ですから葛城に墓を造ることはありません。ならば誰の墓か。私は磐之媛の輿入れに従って片道切符で来日し、媛を支えた百済王族の墓と考えます。記紀は仁徳天皇が磐之媛のために葛城部(かつらぎべ。葛城に設けられた奉仕集団)を定めたと記します。百済王族と葛城の関係はここに始まります。

同前方部角

 日本書紀には雄略天皇5年4月に百済王の弟・昆支が派遣されたこと、武烈天皇3年11月に百済王族とみられる意多郎が亡くなり高田丘(大和高田市?)に葬られたことが記されています。

 御所市柏原には5世紀半ばに造られた墳丘長150mの前方後円墳(掖上鑵子塚古墳)もあります。百済から極めて地位の高い王族が、おそらく途切れずに日本に派遣され、それら王族は葛城に葬られたことが推定できます(注)。「豪族葛城氏」は幻ですが、葛城には葛城部があり百済王族と繋がり続けたことは間違いありません。

注:これを補強するものとして次の記述を引用する。「室宮山古墳の後円部には二つの埋葬主体があり、前方部にはおそらく二つ、もしかしたら三つの埋葬主体があると言われていて、五人くらいの被葬者が眠っています。(中略)朝鮮半島の安羅伽耶(咸安)産の陶質土器が出ています。朝鮮半島製の土器ですから朝鮮半島に関わりのある人でないと持ち込むことができないものです。」(纏向学からの発信 第6章 ヤマト王権と葛城の有力地域集団 坂靖)

写真5:掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)説明板
写真6:同前方部角

11.百済王族の役目

 では、百済の王族は何のために日本に派遣されてきたのでしょう。

 5.百済との関係で引用した直支王のくだりから人質と考えることができるでしょうか。死ぬまで留め置かれる人質などあろうはずもありません。没後は天皇に準ずる規模の古墳に葬られており、最高の国賓として遇されていたことが解ります。とするならば百済王の代理として日本に駐在した、現代で言う大使と考えるのが素直です。以下、便宜上「百済大使」としましょう。

 百済は隣国新羅の脅威に絶えずさらされており、百済外交の最重要課題は朝鮮半島における日本との同盟関係の維持です。その為に最も重要なことは天皇と百済王の姻戚関係を継続することです。

 百済王の命を受け百済大使として日本に赴任した百済の王族は、天皇に嫁いだ百済王女を支援すると共に、次の天皇もしくは次期天皇と目される皇子に百済王の媛を嫁がせることを主たる任務としていたと私は考えます。

第二章<前編>終わり