インドネシアの人口の約5%は中国系です。5%と言ってもインドネシアの人口は約2億4千万人ですから1千2百万人。中国系住民のほとんどは都市に住んでいますので、大きな存在感があります。
古都ジョグジャカルタでは、鳩笛(はとぶえ)を聞けるそうです。鳩笛は鳩の胴に笛を付けて飛ばし、その音を楽しむ中国の風雅な遊びです。少し前まで北京でも聞くことができましたが、本家の中国ではほぼ廃れてしまいました。
又、小鳥の飼育も中国同様に盛んです。公園には鳥籠を持ち寄り、互いにさえずりを自慢する中国系老人で賑わいます。
1.唐の時代
西暦671年、義浄は広州を船で発ち、インドへ仏教を学ぶ旅に出ました。中国とインドを結ぶ海のシルクロードは漢の時代から盛んでした。航路はマラッカ海峡を通過しますので、スマトラ島のシュリヴィジャヤ(中国表記は室利仏逝、もしくは尸利仏誓)に寄港します。
シュリヴィジャヤは中継貿易で栄え、仏教が盛んでした。義浄はインドから帰国後、再び同国を訪ねます。その勢力は東隣のジャワ島にも及び、後にジャワに成立したシャイレンドラ朝(中国表記は詞陵。8世紀から9世紀)は巨大な仏教遺跡ボロブドゥールを残しています。
「尸利仏誓」や「詞陵」は唐に何度も朝貢し、南洋の物資を中国に運びました。
2.宋の時代
10世紀、宋の時代になると石炭火力の利用が始まり工業と商業が飛躍的に発展します。従来の絹に加えて大量の磁器が船で西方に輸出されて行きます。この時期に羅針盤が発明されます。
三仏斉(シュリヴィジャヤの後裔とも言われるが詳細は不明)がマラッカ海峡の中継貿易を支配しています。以前とは比較にならない物量がマラッカ海峡を通ってインドやイスラム諸国、欧州に運ばれました。
中国には東南アジア一帯から丁字、胡椒などの香辛料、伽羅、沈香などの香木、脳子(龍脳樹の樹脂)や樟脳、象牙、真珠などが運ばれました。
3.元寇
南宋を滅ぼし中国の主となった元は、日本遠征の失敗に懲りずジャワ島にもやってきます。ジャワでは元軍を追い出した後にマジャパヒト王国が成立します。
それまでマラッカ海峡の通商権はシュリヴィジャヤなどマレー人の国に独占されてきましたが、マジャパヒト王国の発展と共に、ジャワ人の活躍が盛んになります。マレー人はスマトラ島を追われ、対岸のマレー半島のマラッカを主たる拠点として交易に携わります。
明は、永楽帝(在位1402~1424年)の時代に鄭和を派遣して七次にわたる大航海をさせますが、マラッカは中継基地として繁栄を謳歌します。
このマラッカ王国は1511年にポルトガルに占領されて滅びますが、この地域は英国領を経て今のマレーシアになります。
4.イスラム教の浸透
インド半島の西の付け根にグジャラート州があります。古くはインダス文明とメソポタミア文明を結ぶ海上交易で栄えた地域、その後も一貫して交易の拠点でした。
グジャラート商人はインドの質の高い綿織物をほぼ独占的に供給していました。13世紀にイスラム化し布教にも熱意を傾けましたので、イスラムの教えは交易拠点のマラッカ海峡両岸の港をはじめ、東南アジア各地、それに中国の貿易港とその周辺にまで広まって行きます。
15世紀にはマラッカ王国の国教となり、16世紀頃にはインドネシアの広い地域に広がりました。現在、インドネシアはイスラム人口が世界一多い国です。
5.移民の波
1619年、オランダ東インド会社がジャワ島にバタヴィア(今のジャカルタ)の建設を開始します。インドネシア植民地化の始まりです。
1684年から1757年まで清の海禁策が緩和されました。18世紀前半、多くの中国人がスマトラやジャワ島に移住して来ます。中国人の海外に向かう民間活力が大幅に高まった時期です。潮州人がタイへ移住して行くのもこの頃です。
バタヴィア市内では余りにも中国人が増えたので、東インド会社は中国へ送還したり、他の地へ移送しようとしました。その時の混乱で、市内のほとんどの中国人が虐殺されるという悲劇も起きています。
6.アヘン戦争以降
アヘン戦争後の1842年に結ばれた南京条約で清の海禁策が終わり、再び中国人移民の大きな波が襲います。主力は福建省と広東省の人々です。現在インドネシアに暮らす多くの華僑、華人はこの時以降に移住した人々です。
中国移民は、商業に長けていた上に勤勉に働き、やがてインドネシア経済に深く根を下ろします。
インドネシア独立後、中国系以外の人々の経済力向上を目指すプリブミ政策が採られます。1960年代には華人排斥運動があり、漢字の使用も禁止されました。
1998年5月、スハルト軍事政権崩壊時のジャカルタ暴動では中国系住民が標的になり、多数の被害と犠牲者が出たことは我々の記憶に新しいものです。その後、融和策が採られていますが経済を牛耳る中国系住民への反感は根深いものがあります。
7.回帰
2004年10月、初の国民直接投票によりユドヨノ政権が誕生し、翌年に胡錦濤主席との相互訪問が実現しました。現在、中国はインドネシアの石油や天然ガス資源に投資を増やしています。
同国の電力インフラ整備に中国企業の動きも活発です。両国の交流は右肩上がりに盛んになって行くはずです。
本州の日本海側を指す「裏日本(うらにほん)」という言葉があります。我々日本は黒船来航以来、一世紀半の間だけ中国を背にして過ごすことができました。それと同様、大国中国の復活に伴い、インドネシアにも中国と向き合う日々が戻ってきたと言えるでしょう。
つづく
写真上:朝靄(あさもや)のジャカルタ市内
写真下:ジャカルタ名物・二人乗りバイク