青島市は、外資系企業の進出も多く郊外を併せた人口は7百万、港湾を持つ産業都市として栄えています。梅雨のある地帯の北端ですが、海洋性気候で冬は温暖、夏は海風が涼をもたらします。
春の訪れは早く、暖められた陸に海の冷たい空気が流れ込み霧が発生します。霧が街に上がって来る様子は、サンフランシスコのようです。
信号山から西に見おろす旧市街、目前に緑の尖塔の時計台を持つ赤屋根白壁のルター派教会。その先には青島湾に延びる桟橋、湾の向こう岸の更に奥には黄島が霞んで見えます。
眼下一面には赤い屋根、黄色い壁のドイツ風の家々。ドイツ統治の17年足らずの間に造られた街並みです。
ドイツ統治はビール造りの伝統も残しました。街の名を冠したビールのラベルには中国風の建物が描かれています。中国で知名度が最も高いこのビールの成り立ちに興味が湧いてきました。
1.歴史の舞台へ
旧市街の南の海辺には航海の女神を祀る天后宮(てんごうきゅう)があります。
最初は16世紀、後期倭寇の防衛拠点になったころにできたと言いますが、明の復興を目指す鄭成功(ていせいこう)を孤立させる為、1661年に遷界令(海岸から約15キロにわたって住民を立ち退かせた)が出されていますので、その頃から続くものかどうか。
清が海禁策を緩和した17世紀の終わりから18世紀頃に海関(税関)ができたそうです。それとて海禁が強化される1757年にはなくなり、元の小さな漁村に戻りました。今日、青島と呼ばれる場所が歴史の脚光を浴びるのは19世紀も終わりに近づいた頃です。
2.都市建設
1891年、山東半島の南の付け根にある膠州(こうしゅう)湾の入口という立地の良さに気付いた清朝は軍港建設を始めました。
帝国主義による中国侵略が盛んな時代です。清朝政府に取り入って利権獲得を狙っていたドイツは、山東で起きたドイツ人宣教師殺害事件を機に、1897年に艦隊を派遣して占領します。
翌年には租借を認めさせ、都市建設に取りかかりました。防波堤を築き、軍港を整備します。上下水道を完備した街が築かれて行きます。更に山東半島の中心都市済南(さいなん)まで鉄道を引きくことにしました。やがて大きな事件が起こります。
3.山東の風土
青島から海伝いに百キロほど南には秦の始皇帝をスポンサーに徐福(じょふく)が不老長寿の薬を求めて旅立った地、瑯邪(ろうや)があります。瑯邪台(ろうやだい)と呼ばれる高台では、始皇帝が海神と太陽神を祀ったとされます。
徐福に見られるように、その頃の山東では方術(神仙道の元になった一流派)が盛んでした。
そもそも山東とは、聖なる山・泰山(たいざん)の東を意味します。徳のある皇帝だけが泰山で封禅(ほうぜん。天と地に祈る秘密の儀式)を許されるとされていました。庶民の間でも泰山を聖なる山とする信仰は現代に至るまで続いています。
そんな伝統もあり、風水(方位や地相の吉凶を占う学問)も盛んでした。ドイツの鉄道敷設と沿線の鉱山開発で地の相が乱れると、庶民に不安が広がったのです。
4.義和団事件
19世紀の終わり頃、山東ではカトリックの布教が盛んで何百カ所もの教会が建てられ、排外的な機運が極度に高まりました。ドイツが占領を始めた二年後の1899年に排外感情の強い知事(山東巡撫)が着任し、義和団と呼ばれる集団がキリスト教信者の村を襲います。
翌1900年、義和団は「扶清滅洋」を唱えて北京になだれ込み、キリスト教信者と教会を襲い、外国の公館街を包囲します。乱は結局8カ国連合軍に鎮圧されます。
この事件は1963年にチャールトン・ヘストン主演で「北京の55日」という大作映画になりましたので、ご覧になった方も多いはずです。
5.ドイツ支配の終焉
事件のほとぼりも冷めた1903年、青島にドイツ資本のビール工場ができました。同じ年にルター派キリスト教会も竣工します。都市建設は進み、競馬場、海水浴場も含むドイツの街ができあがります。
第一次世界大戦前にはドイツ人を中心とした外国人2千4百人を含む人口5万6千人の都市に発展したのです。
1914年、第一次世界大戦が始まりますと、連合国側についた日本は英国艦隊と共に青島を攻略し、ここに17年足らずのドイツ統治が終わります。
6.遺産
1922年までの7年間の日本統治を経て中華民国の特別行政区となり、日本人、ドイツ人、英国人、米国人を中心に外国人の社会が維持され発展が続きました。1930年代には人口は40万人を超えました。
ドイツのビール工場は、1945年までは大日本麦酒(現在のアサヒとサッポロのルーツ)の子会社として存続しました。新中国成立後も国営工場として受け継がれ、ビール造りの伝統が残りました。
その「青島」という街の名を冠したビールは、国内最大の市場シェアを占めると共に輸出の半分を占め、中国を代表するビールに発展したのです。
7.ビールのシンボル
青島湾に突き出す桟橋は、この街が歴史に登場する1891年に港湾建設の物資輸送の為に作られ、ドイツそして中華民国政府により延長され現在に至りました。桟橋は街の歴史を見続けてきたのです。
その突端には楼閣が建てられています。これが「青島ビール」のラベルにデザインされている建物です。街の名を冠するビールの象徴を街の建造物の中から選ぶとすれば、最も賢明な選択と言えるでしょう。
今日その中国風の建物は、それが建つ桟橋と共に青島の街の歴史を語ると同時に、海外で「中国産ビール」を主張する象徴としての役割を担っています。
つづく
写真上:梅雨どきの新市街
写真下:青島ビールのラベル