素麺が日本で工夫され、誕生したと考える人々は、中国の福州周辺に素麺(福州では、「線麺」と表記します)が存在してきたことを知らなかったに過ぎません。
福州では少なくとも明(1368~1644年)の初期から存在するとしています。更に素麺は、中国ではありふれた乾麺で、各地の工場で生産され販売されています。
6.素麺伝来
三輪の株式会社池利によりますと、書物に「素麺」の文字が出てくるのは、南北朝時代の「異制定訓往来」からです。
素麺は、その細さに特徴があります。それは、製麺機のない時代に於いてメン文化の行き着く最高の水準とも言えるものですから、必ずしも福州で誕生したとは限りません。
或いは、浙江省あたりで工夫され、寧波(ニンポー)から伝わったのかもしれません。何れにせよ、福州周辺で一般に作られるようになってから程なく日本に伝わったのです。
明が倭寇取り締まりの為に海禁策(鎖国政策)を採る前、元から明に移り変わる時期にあたります。アジアでは既に大航海時代が始まっています。日本の民間貿易船が盛んに中国や朝鮮半島との間を往来していました。取引を巡って問題を起こすと「倭寇」と呼ばれました。
7.素麺の広がり
播州も素麺の産地ですが、揖保郡太子町の斑鳩寺の日記「鵤庄引付」応永25(1418)年9月15日の条に「サウメン」の記述があり、素麺に関する記述としては播磨国で最古のものだそうです。
室町時代は明の影響で禅宗が盛んでしたから、素麺は精進料理と共に、二毛作を行う西日本各地に広まったことでしょう。
8.伝来再び
長崎県島原の西有家町の須川素麺は、日本の他の産地と異なり製麺作業を一日で仕上げます。
製造業者でつくる「須川そうめんルーツ研究会」の調査で、福州周辺の産地と須川素麺の製法が同じであることが確認されました。須川素麺の始まりは、江戸時代初期です。
最初に日本に素麺が伝わってから二百数十年後に新たに現在福州に残る技法が伝わったと考えられます。
9.福州を結ぶ海の道
明は1567年から海禁策を緩和しましたので再び民間貿易が盛んになっていました。後期倭寇の時代です。寧波から浙江商人が、福州から福建商人が日本との間を頻繁に往来していました。長崎や平戸と中国を結ぶ太い海の道ができていたのです。
この頃、ポルトガルやスペインとの「南蛮貿易」が始まりました。江戸時代に入ってからはオランダやイギリスも加わり、日本人も朱印船貿易で東南アジア各地に進出して行きます。
京都の宇治には名僧隠元が寛文元(1661)年に開いた黄檗山万福寺があります。同じ名前の寺が福州の南隣の福清市にあります。隠元は、長崎の興福寺の招請により承応3(1654)年に福清の万福寺から同寺に入り、同じく長崎の崇福寺に移ります。
江戸時代初期、長崎には浙江商人と福建商人が多く居住していました。長崎のこの二つの寺は、それらの人々が建てたものです。
10.深い味わい
福州は、唐の時代から仏教が盛んで、多くの有名寺院が建ち並び、市街のシンボルは現代に至まで二つの仏塔でした(VOL.116「黒い塔と白い塔」を参照下さい)。それはあたかも古都奈良や京都の風情に重なります。
仏教のみならず福州と日本の関わりは想像以上に深いものだったに違いありません。今日、そんな街に日本料理店ができて、日本式の食べ方で、地元産の手延べ素麺をいただくことができます。感慨もひとしおです。
つづく
写真:長崎・興福寺パンフレット