福建省は、海峡を挟んで台湾の向かいに位置します。その省都が福州です。福州は紀元前、戦国時代に中原の覇者となった越国が滅んだ後、越人が移ってきて拠点としました。
越人は航海を得意とする民で、福州は宋、明、清を通じて港湾都市として栄えました。南蛮貿易時代の主要港、その後琉球との交易指定港としても日本との関係が深い都市です。
仕事で福州を訪れました。役所や企業が集まり、なかなか大きな街です。とりわけ台湾企業の進出は目覚ましく、居住する台湾人は10万人を軽く超えています。日系企業も進出し日本料理店も増えてきました。
短い滞在でしたが、二時間ほどの余暇を利用して訪れた古い塔に、悲しい現実を知ることになりました。
1.福州のシンボル
福州の街の真ん中に烏塔(うとう)と呼ばれる古色蒼然とした石塔が建っています。烏(からす)とは、その色が黒いことを意味します。それは、一キロ東に建つ白塔に対比して付けられた通称です。
二つの塔は、何れも唐代に建てられたのが始まりで、その後何度も立て替えを繰り返しながら、仏教信仰のみならず福州の街のシンボル「榕城双塔」として現在まで続いてきた歴史遺産です。「榕」はガジュマル、「榕城」は福州の別名です。
2.烏塔への道
烏塔は一目で加齢の深さを感じさせ、歴史好きには避けて通れない魅力を放っています。タクシーの運転手は、「あの塔は、傾いたので最近建て直しました。行くなら白塔の方が良いでしょう。」と言います。
古い建築物を期待している私としては、不安を覚えながらも烏塔の立つ低い丘の交差点に行ってもらいました。
手前は、大規模なビル建設現場になっており塔に近づけません。隣の古いアパートに駆け込んで入り口を尋ねました。中年の女性は、外観から判断したのか私に、「日本人ですか?」と尋ねました。
女性は道路清掃のおじさんに尋ねて、工事現場の塀伝いに行けば良いと教えてくれました。たまに来る物好きな外国人以外、地元の人も行かない場所であることが解りました。
上り坂になった細い路地を行くとやがて下り坂、不安ながらも下っていくと、右に折れる更に細い路地に手書きの表示があり、そこから坂を上がると左手に塔が見えました。
工事の影響でしょう、「立て直した」と言うのに既に傾いています。更に進むと開けた場所に出ました。丘の頂上です。
3.訪れる人もなく
赤く塗られた塀に沿って行くと、塀に穿たれた入口は閉まっており、壁には、「南無阿弥陀仏」と黄色で書かれています。入れる場所はないかと更に塀沿いに行くと塀の切れ目。左手を見上げると塔が目の前にそびえていました。
真新しい石碑に由来が書かれています。正式名称は、崇妙保経堅牢塔。五代十国時代のビン(「門構えに虫」。この文字は今では福建省を表す)の永隆3(941)年に建てられた八角七層の塔です。明の天啓元(1621)年に大改修。
この時に一階の8つの角に金剛立像をはめ込みました。清の康煕35(1696)年、再改修。この時に塔の中に階段を造り、各階の大きな窓から内部に光が入るようにしました。
同時に、窓越しに見える位置に仏像を彫った石をはめこんでいます。石塔の外観や一部の彫刻には五代のものが残り、当時の建築や美術の息吹を伝えているそうです。
塔は傾きがひどくなった為、1957年に大規模な修復工事が行われました。これが運転手が言っていた「建て直し」でしょう。石の継ぎ目はコンクリートで固め、更に鉄のタガで各層を補強しました。高さは約35メートル、全国重点保護文物に指定されています。
静かです。足音に振り返ると一人の女性がやってきました。そばに住む人のようです。私をちらりと横目で見て通り過ぎました。
4.最古の石碑
塔の左手前に高さ3メートル程の石碑が立っています。「貞元無垢浄光塔銘」の石碑です。文字は長い年月の間に擦り切れていますが、屋根で雨露から守られてきたらしく、保存状態は良好です。
唐の貞元15(799)年、ここに初めて仏塔を建てた時にその由来を刻んだものです。これは福建省最古の石碑です。
1967年、文化大革命の嵐がこの寺を襲いました。以前は目の前の工事現場に寺院が建っていたはずです。基礎工事で掘り下げられ、何の痕跡も残っていません。建物が完成すれば烏塔の姿は遮られ、千二百年続いた福州の景観が失われます。
5.白塔
烏塔から東に見える小高い丘を于山(うざん)と言います。その西麓に最初に塔が建てられたのは唐の天佑元(904)年。烏塔の位置に最初に塔が建てられてから105年後のことです。この塔は、明の嘉靖13(1534)年に落雷で破壊され、14年後に再建されました。
以後、何度も修復を繰り返し、烏塔と同じく1957年に大規模改修を行ったとしています。
正式名称は、報恩定光多宝塔。通称白塔です。これも八角七層ですが烏塔のような張り出した庇(ひさし)はなく、どちらかというと八角の階段状ピラミッドを縦に細長く伸ばしたような形です。
唐代の形を残す西安の慈恩寺大雁塔(だいがんとう)に似ています。木造の骨格の周りに煉瓦を積んで、表面を漆喰で白く塗っています。
6.幸運と観光化
1967年、白塔の周りから唐代の塔の基礎と柱の跡が発見されたことが幸いしました。この年に始まる文化大革命で宗教施設は徹底的に破壊されましたが、歴史遺産ということで寺院の完全な破壊は免れた模様です。
于山は、宋代から山腹の巨岩に著名人の筆跡が刻まれてきました。それらに囲まれて立つ白塔は「白塔寺」として塔以外の寺院建築も整備され、観光寺院として開放されています。
私が訪れた時は折悪しく改修中で立ち入ることはできませんでしたが、周辺を散策する人は三々五々、途切れることなく続いていました。木立の合間に白塔が見えます。
7.いつの日か
福州は昔から仏教が盛んで、奈良や京都のように立派な寺院が多く存在することが街の特徴でした。清朝でも五大禅寺と呼ばれる寺が隆盛を誇りました。そして仏塔は唐の時代から街を象徴する景観でした。
文化大革命の後、五代十国時代創建の華林寺を始め、宋代の鉄仏が残る開元寺、五大禅寺の涌泉寺、西禅寺など有名寺院は観光資源として復活しました。
涌泉寺では千仏陶塔をよそから持ってきたり、西禅寺では中国最大の玉仏を作ったり、観光名所としての整備に余念がありません。こういった視点が中心ですので、景観にまでは考えが及びません。
寺院の痕跡さえなくなり地元の人にも忘れられた烏塔は、人々の視界からも姿を消そうとしています。何れの日にか福州の人々がその価値に気づき、街の象徴としての烏塔の威厳を取り戻して欲しいものです。
つづく
写真上:崇妙保経堅牢塔(烏塔)
写真中:「貞元無垢浄光塔銘」の石碑
写真下:報恩定光多宝塔(白塔)