中国の人にとって漢字の字体は自由自在、例えば「草」。元の字は「艸」で、地面から草が出ている様子を表します。その下に音を表す「早」を付けて「艸」を簡略化したのが今の字体です。多くの中国人は何れの字体でも読めます。漢字の国の人々ですから。
1.文字の統一
紀元前3世紀、中国最初の統一王朝を打ち建てた秦の始皇帝は、文字の統一を行いました。中国の文字は商に始まりますが、周を経て春秋、そして戦国時代には中国文明は広がりを見せ、国によって少しずつ異なるようになりました。
それを秦の字体を基本にして統一したのです。これを篆書(てんしょ)と呼びます。
秦に続く漢の時代、篆書を簡略化して隷書(れいしょ)が作られます。草書の基にになる八分隷書(はっぷんれいしょ:隷書にハライ、ハネを付けたもの)とその早書きである章草(しょうそう)もできました。八分からは、行書もできました。
そして後漢末には楷書ができたのです。漢の時代に、その後長く一般に使われる字体・書体ができましたので、「漢字」と国名を付けて呼ばれるようになりました。
ただ、秦の発音はシン→シナ→チャイナと変化して欧米に国名を残しましたので、「漢字」の英語名は、”Chinese character” です。言ってみれば「秦字」です。
2.書家の時代
東晋の永和9年(西暦353年)3月上巳(月の最初の巳の日、後年3月3日に固定され桃の節句となる)に会稽の蘭亭で開かれた曲水の宴で、参加者が書いた詩に王羲之が序文を添えました。「天下第一行書」として有名な「蘭亭序」です。既に漢帝国が滅んで二百三十年、三国時代を経て南北朝時代を迎えています。
南朝では雅(みやび)な貴族文化が花開き、この時代に書道は芸術になりました。とりわけ王羲之は書聖と崇められ、今日に至るまで中国のみならず日本でも書家の模範とされています。その子の王献之も書道を高めました。
隋から初唐にかけて欧陽詢などの三大書家が出ました。王父子にせよ三大書家にせよ、この頃の書家は書くことが専門ではありません。何れも役人という本業がありました。盛唐の顔真卿(がんしんけい)は科挙に合格した高級官僚で、安史の乱の平定に活躍したことでも有名です。
3.印刷の時代
木版印刷の普及により、手書きされることが基本である「書体」という概念から、印刷される字のスタイル「字体」(フォント)という概念が生まれました。
最初は楷書でしたが、明の頃から徐々に、縦線に比べ横線が細く、右ハライやハネが太く明瞭な、今日「明朝体」と呼ばれる字体になっていきました。この字体には顔真卿の残した楷書体も多数影響を与えています。
今、日本も含め漢字圏の多くの印刷物は明朝体で印刷されています。活版印刷が普及してからは欧米起源のゴシック体も入ってきました。新聞を見てみますと、見出しがゴシック、本文が明朝体になっているのが普通です。
4.簡略化の波
楷書ができて千八百年後に大きな変化がやってきました。敗戦後、日本はGHQ(日本占領連合軍総司令部)の指示で漢字の簡略化を行ったのです。「燈」が「灯」、「學校」が「学校」、「佛教」が「仏教」といった具合です。
同時にその時、複雑な字を同音の簡単な違う字に置き換えることも行われました。「聯」という字は使わなくなり、代わりに「連」を充てることにしました。
「聯合軍」が「連合軍」になりました。同じ例では、「遵」に代えて「順」、「法令遵守」が「法令順守」になりました。特定の字を使わなくするという発想は「漢字の国の人」には違和感があるはずです。
中国でも新中国成立後、簡略化が進められました。「灯」や「学」は日本と同じですが、多くの字を異なる略し方にしました。台湾では全く簡略化をしませんでしたので、これだけでも3種類の字体が並存することになりました。
5.字体の多様化
日本では70年代後半から女子中高生の間に「マンガ文字」が流行り、今では「まる文字体」と字体に格上げされています。中国でも改革開放経済開始以降、同様の発想の字体ができました。店舗の看板、広告、或いは料理店のメニューにまで使われています。
屋外広告や新聞の見出しなど、ゴシック体が増えているのは中国も同じですが、ここ十年ほどの間に、歌舞伎の看板や番付に使われる勘亭流の文字を見かけるようになりました。
丸くて太く隙間の少ないこの書体、日本では日常使うことはありませんが、中国では字体として使われています。中国人から見れば新鮮な、或いは日本から来たオシャレな字体というイメージがあるのでしょう。屋外広告など目立つところで用いられていますと、日本人としてはこそばゆい気がします。
つづく