中国で美味しい米の産地と言えば、旧満州(黒竜江・吉林・遼寧の東北三省と、内蒙古自治区の北東部)と河北省北東部が真っ先に挙げられます。前者は満蒙開拓団の拓いた水田、後者は日本の国策会社の農場がルーツです。
何れも戦前の「日本の、日本による、日本の為の」政策の結果生まれた遺産ですが、現代中国のお役に立っています。丁度田植えの時期に旧満州内蒙古の水田を訪ねました。
1.乾燥地帯
北京から北北東に禿げ山の上を飛び続けます。谷筋には川が蛇行し、集落が点在します。川沿いには狭い耕作地が見えますが、川に水はありません。大躍進時代、木を切り尽くしましたので保水力がなくなり、雨が降った時にだけ水が流れるのでしょう。
30分程飛ぶと、禿げ山が低くなり山に挟まれた農地の巾も広くなってきました。やがて平地になり砂漠が現れました。削られたむき出しの地面が濃い黄土色、凹凸の隙間を風化した明るく輝く砂が埋めていますので、鱗状に見えます。
砂漠の真ん中を流れる川には水があります。農地と集落が川に沿って帯状に続きます。
2.オアシス
離陸後1時間、小さな青い湖とその回りの広い農地が見え、飛行機が高度を下げていくと畑が連なる平野に至りました。更に高度を下げるとやがて都市が見えてきました。煙突から上がる石炭の真っ黒な煤煙が中国の都市であることを主張しています。
市街の脇を流れる川沿いには何と、樹木が茂っているではありませんか!。更に、川筋の続く限り、広い水面の帯が広がっています。水田です。この街はまるで砂漠の中のオアシス都市です。そして目的地ウランホト空港に着陸しました。
3.沃野の秘密
梅雨のない北方の大地に水田を作るには用水路を引いて灌漑をしなければなりません。その為にはダムが必要です。日本の開拓団(或いは満州国政府)は大興安嶺に源を発する河の上流にダムを造りました。
そして水路を整備して水田を拓いて行きました。ダムは新中国になってから拡張され、今も豊かに水を供給しています。
読者の皆さんは、当時入植した「侵略者」たる日本人農民の評判が気に懸かることでしょう。敗戦時の混乱で逃げまどう日本人は自分で歩けない幼児や赤子をやむなく残して帰国しました。
それを中国の人々は育てて下さいました。私はそれをヒントにして、私なりの理解をしています。
残留孤児問題は、日中国交回復後、毎年報道されましたが関係者の高齢化と証拠収集の困難さから数年前に定期的な帰国が行われなくなりました。
そんなことで若い方は身近に感じられないかもしれませんが、「大地の子」(山崎豊子著)と言えばテレビドラマを通してピンと来る方も多いことでしょう。
4.モンゴル族の地
ウランホトの街を見下ろす丘に成吉思汗廟が建っています。廟の前に立つと、街とその回りの沃野、それを囲む低い山の連なりまで一望できます。1940年に蒙古人の間に広く寄付を募って建設したそうです。
日本の国策の一環として民族融和が目的だったのでしょう。近年更に整備され、モンゴル族の信仰を集めると共に、李鵬首相や胡錦濤副主席(何れも当時)といった中央政府幹部も訪れています。
清の時代から漢民族の入植が進みましたので、ウランホトの人口二十数万の内、7割弱が漢民族、残る3割程度がモンゴル族、その他満州族と朝鮮族という構成です。
モンゴル族はほとんどが都市に定住しており、牧畜や農業をする人は郊外や草原に家を構えています。モンゴル語で「ゲル」と呼ばれるテントを持って遊牧する人はいなくなりました。
郊外の草原をクルマで走りました。家は草原の中にぽつんとあり、又数キロ行くと隣家があります。羊の放牧に必要な草原の広さが人口密度を決めています。
5.満州族
実は漢族の一部は満州族です。新中国成立時に民族を選べたので、満州族の多くは漢族に登録したそうです。清朝260年の間に満州族は被征服者の漢族に同化され、言葉も忘れてしまいました。
今、満州語を話すのはカザフ共和国と接する新彊のイリ地方に住むシボ族だけです。国境警備の為に移住を命ぜられ、そのまま文化を残したのです。
6.砂漠化との戦い
小高い丘から水田を見下ろしました。川と並行に用水路が引かれ、川と用水路の間は水田です。用水路の外側にも水田がありますが、水路から離れたところはトウモロコシ畑です。耕作地の外側を山や丘が取り囲んでいます。
禿げ山には植林が行われていますが、若木が多く、樹齢が長いものでも二十年程度と思われます。文化大革命後にやっと植林が始められたのでしょう。
既に表土が流れ出し、岩肌が出ているところがたくさんあります。ここまで来ればもう木は育ちません。雨が降らなければ乾燥しますし、降れば降ったで更に表土が流れ出します。「取り返しがつかない」という言葉が頭の中に浮かびました。
7.モンゴル式歓迎
観光民族村に案内していただきました。民族衣装の女性は、主賓の首に絹の白いマフラーを掛けて敬意を表し、銀器に酒を注いで勧めます。主賓が一気に飲み干しますと、器は他の人に回って行きます。
この乾杯の儀式が一周したら馬頭琴の演奏で歌が始まります。食事は塩ゆでの羊の肉がメインディッシュ、最初はホストが一切れずつ切り取り皆に配り、その後は各自がナイフで切り取って食べます。私は羊の目玉をくり貫いて頂きました。これで同席のモンゴル人の仲間入りです。美味でした。
草原からの帰り、傾斜がゆるやかでまだ表土のあることろには懸命に植林が行われていました。若木ながらも森が復活しているところもありました。人がやったこと、人がやれること、その規模と影響について考えながら、「まだ取り返すチャンスがある」と、少し希望を持ちながら同地を後にしました。
つづく