天津中学の同窓会が故地・天津で開かれ、私も夕食会にお招きいただきました。天津にはかつて日本租界がありました。
「戦時中、天津にまで疎開してたんですか?」
「ちゃうやろ!それは学童疎開や。租界っていうのは・・・」
1.租界の始まり
英国が、麻薬(アヘン)の輸入を禁止した清朝中国に、「売り続けさせろ」と戦争を仕掛けて、アヘン商人が自由に活動できる場所を上海に確保したのが租界第一号。
1845年のことです。租界には中国の主権は及びませんから、中国にある外国の領土と考えれば解りやすいでしょう。帝国主義の最盛期ですから、米・仏がそれに続きます。
英・米租界はその後合併して共同租界になり、フランス租界共々面積が拡張されていきます。やがて上海は両租界を中心に国際都市として発展します。
中国人も清朝末期の混乱を避けて流入してきます。日本人も増加を続け、日本人街もできました。第一次世界大戦が始まって英仏からの進出が停滞すると、日本人が外国人の中で最大多数を占めました。
2."Bollowed place, bollowed time"
同じくアヘン戦争で英国が獲得した香港を、韓素英(Han Suyin)は著書「慕情(A Many-Splendoured Thing)」の中でこう表現しました。
そんな借り物の場所と時間で、外国人は繁栄を享受しました。スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国(Empire of the Sun)」は上海共同租界が舞台です。
キリスト教会で少年達が聖歌を歌っているところから始まります。その一人が主人公。父は英国人実業家、プール付き の豪邸には中国人の使用人。父はゴルフ三昧、少年は飛行機マニア、運転手付きの自家用車で出掛ける豪華な仮装パーティー。
回りの世界とは隔絶したこんな 生活をしている人も少なからず居たのです。日本軍がやってくるまでは。
3.天津の街並み
租界は、東に向かって流れる海河を挟んで西から順に、北岸はオーストリア・イタリア・ロシア・ベルギー、南岸は日・仏・英・独の順に並んでいました(注)。
天津駅は旧ロシア租界。南に解放橋(旧万国橋)を渡ると旧フランス租界。解放北路には円柱が並ぶ重厚な銀行の建物が両側に続きます。その多くは租界時代に建てられたものです。
例えば中国銀行の建物は横浜正金銀行(現東京三菱銀行)でした。
英国租界には競馬場がありました。そこに続く道は今、馬場道と呼ばれています。裕福な中国人も多く住んだ為、欧風のみならず中欧折衷など各種様式の建物が混在しています。
和平路は以前、旭街と呼ばれ、路面電車が走っていました。勧業城までが旧仏租界、そこから西に百貨大楼(旧中原公司)に至る繁華街を抜けて、南馬路と交差するあたりまでが日本租界でした。
その西側がもともとあった中国の街です。海河を見渡せる位置に航海の女神を祀る天后宮があります。細い路地の建て込んだ区域でしたが、再開発が行われ、食品街と旅館街という観光スポットもできています。
4.国際都市天津
天津には各国の政府機関や企業が集まりました。人口が増えるにつれ、商店や料理店も増え、繁華街もできました。各国の学校も、新聞社もできました。
華北最大の物資の集散地として港湾・鉄道も整備されました。天津は上海に次ぐ国際都市になったのです。
租界相互の往来は自由でしたから、租界住民は国際感覚が豊かでした。百貨店では日本のどこよりも品揃えが豊富だったそうです。
今回お会いした同窓会の皆さんも少年時代を過ごされた環境のせいでしょう、私の父など軍国時代の日本で育った同世代の日本人とは、何か、明らかに違うものを感じました。
5.当時の味
ドイツ租界にあった洋食レストラン「キスリン(起士林)」は当時一世を風靡したそうです。近年同名のレストランが復活しています。その売店では十数種類ものアイスクリームを売っていたとか、戦前の日本では冷蔵庫さえろくに普及していなかったというのに。
同窓会の夕食は中華料理でしたから、中国の味に話題が移ります。
その席で出た揚げ魚のあんかけは、魚の身に包丁を格子状に入れてパイナップルのように仕上がっています。あんもピーマンなどを使って赤・青・黄の彩りが綺麗です。
「昔とは料理の仕方が違いますね。日本人ということで料理人が気を遣ってくれたのでしょう。料理人に美味しいと伝えて下さい」
天津の饅頭は中に棗(なつめ)などの甘い餡が入っていました。その方が祖父に連れられて行った満州で買ってもらった饅頭の中身はニラ。「まずい!」と言ったら、祖父は、「何て物、売りやがるんだ!」
饅頭は中国語で「マントウ」と読みますが、その饅頭売りは気を利かせて日本語で「マンジュウ!」、それが誤解を深めました。「所変われば品変わる」ですね。
「うまいもん、食わしてやる」とお父さんに言われて、出前を待つこと暫し。小麦粉を溶いて鉄板の上で薄く焼いた「餅」と呼ばれるものを細切りにして、それを麺の替わりにした焼きそばが出てきました。
片栗粉でとろみをつけたあんが掛かっていたそうです。「おいしかった!」
6.戦禍を越えて
戦争が終わって租界の住民は、身一つで日本に引き揚げました。戦後の混乱期、日本で生活基盤を築くのは大変でした。今回参加された方々は日本で就職し、家庭を持って、既に引退する年齢です。
その間、中国では民族念願の統一国家ができました。二度の混乱期を経て、80年代から改革開放経済が始まり、戦後初めて日中互いの国が身近な存在となったのです。
この同窓会まで戦後一度も中国に来る機会がなかった方も多いようですが、中には中国の外資企業の経営指導をされている方、日本の援助で作られた高速道路建設で来られた方、天津で合弁企業に関わっている方も居られました。
ある方は、「日本軍の爆撃で南開大学の貴重な蔵書が失われたので、お役に立てればと少しずつですが本を寄付しています」。
帝国主義では、領土の獲得が国の繁栄と結びついていました。そこから生まれた不幸な戦争の時代が終わって、今はかつてない平和な交流が地球規模で行われる時代です。
人も物も金も国境を越えて自由に移動できます。私も天津で清酒を造らせていただけますし、こうして同窓会も開けます。そんな時代であることの幸せを感じました。
注:1861年に英・仏、1895年に独、1898年日・露、1901年ベルギー、1902年イタリア、1903年オーストリアと租界が作られた。米国租界もあったが、1902年に英国租界に吸収された。日本租界は、北は海河(旧白河)、東は長春道(旧秋山道)、南は南京路(旧運河)、西はだいたい和平路と多倫道(旧福島街)に面した一帯までであった。
つづく