英国人は世界中どこにいても「海にさえ出られれば自国に帰れる」と安心するそうです。
私も地図を眺めて海の無い国に閉塞感を感じたり、内陸に深く入っていくと言いしれぬ不安感を感じます。日本の主要都市は海沿いにあります。「海無し県」という表現もありますが、日本人のそのような感覚の発露と言えなくもありません。
内陸の人々にとって世界の終点を意味する海は、航海する人々にとっては世界に通じる路です。島国である英国や日本はもとより、そんな感覚を多くの人が抱くに到った現代に繋がる「大航海時代」は、ヨーロッパに先行して実にアジアに始まったのです。
1.大航海時代の幕開け
13世紀、ユーラシア大陸中央部を横断する世界帝国モンゴルの出現で、「絹の道(シルクロード)」とその北の「草原の道」を通る東西交易・交通が極めて盛んになりました。
ところが、陸で運べる絹や陶器の量は、海に比べるべくもありません。いわゆる「海のシルクロード」は中国からインドシナ、マレー半島、インド沿岸に沿ってアラビア、そして一部陸路を経て地中海でヨーロッパに通じていました。これが自ずと活発になり、アジアの大航海時代が始まったのです。
2.日本でも東南アジアでも
シルクロードの終点・日本にもその影響は即座に及びました。倭寇です。海賊としての面が強調されがちですが、本業は貿易です。
13世紀に始まり、勘合貿易の時代を挟んで16世紀まで続きます(17世紀から朱印船貿易、そして鎖国時代に入ります)。後期倭寇は中国人も主役です。明を衰退させる程の影響力があったというのですから驚きです。
南ではインドシナ半島南東部にあった海洋民族のチャムパ王国も栄えました。
3.過酷な航海
航海はまだまだ危険でした。宋代に発明された羅針盤も実用化されてはいましたが、完成度は高くなかったことでしょう。
1290年、マルコ・ポーロは泉州(今の福建省)からペルシャのイル・ハン国王に嫁ぐ王女を送る旅で帰国します。14隻に600人が乗って出発、3年後に到着したときには18人に減っていたそうです。
彼が著した「東方見聞録」は、ヨーロッパの人々に「黄金の国ジパング」への夢をかき立てました。
当時、ヴェネチア商人が地中海貿易を牛耳っていましたが、1422年、オスマン・トルコが東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルを包囲、地中海東岸を支配した頃からアジアへの直接航路を求める機運が高まり、これがヨーロッパの「二世紀半遅れの大航海時代」に繋がっていきます。
4.航海王「鄭和(ていわ)」
元が北に去り、明王朝ができました。明は貿易による巨額の利に着目し、それを独占しようと考えました。
そこでまず、倭寇を閉め出す為に海禁策と呼ばれる鎖国体制をとり、室町幕府との間の勘合貿易(1404~1523年)のような国家間の朝貢貿易だけを認めました。
朝貢貿易とは、明の優越を認めて臣下になった国からの貢ぎ物に対して土産を与える形の完全国家管理貿易です。永楽帝は、更に多くの国と直接交易関係を結ぶ為、或る男を派遣しました。
名は鄭和。雲南出身の色目人(西域の人)、宦官として重用されていました。1405年に200隻の船団を率いて西に出発、その後1433年まで都合7回の遠征を行い、遠くアフリカまで三十数カ国を回り、多くの成果を上げました。
5.中国船の優越
鄭和の船は、全長150メートルにも及ぶ巨船と言われてきましたが、実際には50メートル程であったようです。それとてヨーロッパの大航海時代に活躍する帆船より大きいものでした。
船体の一部が損傷しても船が沈まないよう船倉を区画した水密隔壁はヨーロッパに19世紀になって伝わったようですが、中国では何百年も前から行われていたことが、海底から発見された船で解っています。
6.忘れられた歴史
ヨーロッパの大航海時代が始まって、アジアの大航海は下火になったのではありません。19世紀に圧倒的な武力格差ができるまではヨーロッパ船もその他大勢の一部に過ぎませんでした。
ヨーロッパによる近代の始まりは、それ以外の海の歴史を置き去りにしてしまいました。近年とみにアジアから見た歴史の再検討がなされていますが、新大陸を発見したのは鄭和という説まであるようです。
60年前に鄭和が作成した地図をコロンブスが持っていたというのです。航海の経験や船の優越から見て、私は考えられないことはないと思うのですが・・・。
古代から海上交易の拠点として栄えた広州の街を見下ろす鎮海楼。洪武13年(1380年)に建てられたのが始まり。現在の建物は、1929年に竣工。広州博物館として広州の歴史を紹介している。)
つづく