上海の街を歩いていると「とんこつ東京ラーメン」などという如何にも怪しげな店があったりします。日本のラーメンが中国にまで広がってきました。
今や日本は空前のラーメンブーム、各地の名物ラーメンが味を競います。その大本はどこか皆さんもご興味のあるところでしょう。ルーツ探しのポイントは、麺とスープの出会いにありました。
1.拉麺とラーメン
中国語で「麺」は小麦粉で作られた食品全てを意味し、その内の手延べで細くしたものを「拉麺(ラーミエン)」と呼びます。「拉」とは引っ張る意味です。「拉麺」は麺の種類を指す言葉に過ぎません。
ラーメンは、麺とスープの上に具が載った調理された食品の名称です。かつて「支那そば」とか「中華そば」と呼ばれていました。
戦後、柳さんの麺から「柳麺」という言葉ができたと言われていますが、「拉麺」の音の影響を感じます。その後、即席麺ができて「ラーメン」の呼称が定着しました。
2.ラーメンって?
ルーツを探る上で重要なのはその定義です。
麺は、蕎麦やうどんと同じく生地を薄く伸ばして切った「切り麺」がほとんどですが、中国では同様の食品に各種の麺を使います。又、小麦粉を練るのに鹹水(注)を使うのが一般的ですが、現代中国では使うほうが希です。
そこで麺にはあまり拘泥せず、ラーメンとは「小麦粉でできた細い麺(南方では米粉でできたものを含む)をゆでて一人用の椀に盛り、豚・鶏・牛など動物系のスープを掛け、上に具を載せた軽食」と致しましょう。麺とスープを入れる順序が逆でも構いませんが、麺とスープと具は椀に盛るまで別々に分離されていなければなりません。
注:かんすい。内陸の塩湖で採れるアルカリの強い水。麺の色と腰を出す。古くから中国で用いた。
3.なんで無いねん!
「北京風」とか天津麺など、馴染みのある名前から「本場のラーメンを食べるんや!」と意気込んで中国に出かける方も多いようですが、ほぼ空振りに終わります。
中国は、黄河流域の小麦文化と揚子江流域以南の水田稲作文化が融合したものです。麺は小麦粉を打ったものですから、ラーメンの起源は麦作地帯の中国北方と思われる方も多いことでしょう。ところが、ずっと存在してこなかったのです。
あるのは、ゆでた麺に具を載せたスープの無いものです。食堂でしつこく「湯」、即ちスープに入った麺があるか尋ねると、「湯麺(タンミエン)」があるそうです。
待つこと10分、直径30センチはあろうかという大きな鉢に入って出てきたのは、麺のゆで汁にトマトの薄切りと溶き卵を煮込んだ伸びきった白い細麺です。あまりの落胆に、二口目を食べる人はいません。
4.よく食べるところが出生地
西域は、拉麺はもとより刀削麺(小麦粉を練って棒状に固めたものをナイフで薄く削った麺。華北の山西省が有名)、油を付けて手で延ばしていく太めの麺(日本の素麺の起源と思われます)、切り麺など麺の種類が豊富で、しかもそれらのラーメンが存在します。
又、広東もラーメンを日常的に食べる、中国大陸では珍しい地域です。具も多様、麺の種類も豊富で、切り麺、その乾麺、拉麺に加えて、米を粉に挽いて作られたビーフン(米粉)なども選べます。
ラーメンの起源は従来、西域とされてきました。それは、「拉麺」と「ラーメン」の混同によるものと思われます。私は、麦作地帯から遠く離れた広東で麺がスープと出会ったと考えています。西域起源の場合、同じ食文化の華北にラーメンが存在しないことを説明できないからです。
広東は潮州人など海上交易を担った人々の本拠地です。ラーメンが東南アジア各地、台湾、沖縄、日本に分布することから見ても、裏付けられると思います。但し、東南アジア各地では米粉(こめこ)でできた麺が多いようです。
5.「百三十年の歴史」説
清末、太平天国軍は広西で挙兵し湖南に攻め入りました。1852年、長沙を囲んだとき、北方から討伐に派遣された兵は米の食べ方が解らず飢えました。
当時、穀倉である江南の米を首都北京に送ってはいましたが、まだ麦と米相互の往来は一般的ではありません。
小麦は粉にして食べますが、米はそのまま蒸すか煮るかして食べます。湖南はもとより稲作地帯には粉に挽くという文化が伝わっておらず、石臼がなかったものと思われます。
太平天国の乱は稲作地帯の人々が華北にまで攻め上るという歴史的にも数少ない出来事でした。粉の文化は遠く広東・広西にまで広がりました。
又、二度のアヘン戦争により「スープ」という欧州の文化が開港した都市に入ってきました。それらが「ラーメン」という形で融合したのでしょう。ラーメンの誕生は意外と新しく、乱の後、日本の明治維新の頃ではないかと私は考えています。
1949年の新中国成立後は人の移動が制限されましたので、それまでの短期間では華北まで伝播しきれません。ただ、制限の緩かった回族(イスラム教徒)は西域などに伝えることができたことでしょう。
中国大陸では西域と、広東省を中心とした地域や沿海部など限られた地域にしかラーメンが存在しなかった理由もここにあると考えます。
6.日本への伝来
長崎のチャンポン麺は、福建人の陳という方が長崎に開いた四海楼という料理屋で、明治30年頃に発明されたと言います。
「チャンポン」は既に日本語になっていますが、福建語で「混ぜる」という意味です。豚肉と、エビやイカという海の幸を一緒に炒めて載せたことによるのでしょう。チャンポンのスープは豚骨(とんこつ)です。
チャンポンがあるのであれば、チャンポンしていないラーメンもあったことでしょう。沖縄にはソーキソバがあります。これが原型に近いように思われます。透明な豚骨スープがベース(現在、鰹出しも混ぜるようです)、鹹水を使った腰のある太めの拉麺、豚の骨付きあばら肉を煮込んだ具を載せます。
薩摩揚げ(「Vol.81 海の女神と薩摩揚げ」を参照下さい)が載ることもあるようです。こうなると海の幸とのチャンポンですね。
7.うどんの文化
江戸で発達した蕎麦は、ざる・盛りが主で、掛けは従。しかもつゆを飲む習慣がありません。今だに関東ではラーメンスープを飲まない人が居るくらいです。一方、関西で発達したうどんは、麺をつゆと一緒に楽しむ文化です。
うどんがつゆと出会ったのもラーメンの影響というのは考えすぎでしょうか。それまでは醤油を掛けて食べていたのではないか、その上にエビ天が載っている伊勢うどんこそ江戸時代の記録に残る「ねたもの」ではないか、と考えています。どなたかご存じの方、ご教示下さい。
つづく