VOL.65 大連の海水浴

投稿日:2001年11月12日

大連の海水浴

プロローグ

 「よーし、今年の夏休みは大連に海水浴や。日本の飛行機、4ツ星ホテル、おまけに天津まで一泊の船旅付きや。スッゴーイぞ。」

 「その船大丈夫なんでしょうね。私は浮き袋を持っていくわ。」女房が真顔で応じます。

 「オランダ製で、無茶苦茶きれいなんや。食堂もアッパークラス用のがあって、タバコを吸えへん以外は、文句無しや。前に出張で乗ったことあるんや。」

1.大連という街

 南下政策を進めていたロシアが建設し、日露戦争後日本が引き継ぎました。中国人住民も街が発展すると共に職を求めて移り住んだ人達で、中国にある「日本の街」だったそうです。

 私の友人のおばあさんは大連生まれの大連育ち、大連の女学校を出て結婚し、大連で家庭を設けて生活していました。3年前、戦後初めて大連を訪問される時にお供しました。

 昔、日本橋と呼ばれた橋を渡ると、かつて通われた小学校がありました。事情を話して中に入れていただくと、昔のままの校舎がありました。板張りの廊下が上下にたわみます。

 「運動会の時、あそこから入場したのよ。」

 「ここには、売店があってお昼にパンを買ったのよ。」

2.三年前の思い出

 星が浦と呼ばれた海水浴場は「星海公園」になり、整備されて遊園地もあります。季節はずれで泳ぐ人はいませんが、浜辺を見下ろした時、おばあさんの記憶が蘇りました。

 「高等学校の生徒が、私たち女学生を見て浜辺にドイツ語で「愛してる」って書いたの。私たち、「あの人達、不良よ」って言っておかしがったの。」

 男女交際がオープンでなかった頃の、恥ずかしくも嬉しい経験が目に浮かびました。

3.今年の星海公園

 レンタルの二人用テントが浜辺に並んでいます。日除け代わりのようです。ビーチパラソルもあります。プラスチックのテーブルと椅子がセットです。これを借りましょう。

 浜辺はゴミだらけです。水着に着替えていざ、海へ。水際は、ゴミが浮いています。食べ終わったトウモロコシの芯とか、アイスキャンディーや菓子類の袋が主です。

 あまり海に入っている人はいませんが、これなら無理もないか。もっとも中国では、泳げない人が結構います。

 「お父さん、大丈夫?」息子が、汚れた水で病気にでもならないか心配しています。

 「大丈夫、大丈夫。」私は、海水に頭まで浸かって目を開けて見本を示します。こうでもしないと、中国まで海水浴に連れてきた父親の面子が保てません。あまり気乗りしない息子を何とか泳がせて、浜に戻りました。女房は海水に触れようともしません。

4.貝売りのおばはん

 回りでは、ゆでた貝を食べて貝殻をそこら中に捨てています。間もなく私達のパラソルにも売りにやってきました。ベビーホタテを買いました。真っ赤な貝殻、ピンク、紫など色々なものが混じっています。ビールも飲み終えたので、早々に引き上げました。

 ホテルまでの帰りは、路面電車。5分間隔の運行です。かつての日本のインフラが役立っています。路線によっては、戦前の車両も現役です。昔の日本の都会の感覚です。

 ホテルに戻ると、最初に子供が苦しみ始め、やがて全員腹痛。貝毒のようです。浜辺のおばはんは、所構わず貝を採って小遣い稼ぎをしています。食べた我々がアホです。

5.船旅

 かつて乗ったオランダ船はどこへやら、中国製です。特等室なのに高級船員室の後部にある不条理、全ての人々がアッパーデッキに上がれる理不尽、窓から覗き込まれて我々は動物園の猿です。

 ボロボロの二畳部屋にカーテンを閉めて薄暗い照明の中、腹痛に耐えます。食堂は、一時間も前に作ったものをたらいに盛ってあり、それをよそってくれました。それしか食べる物はありません。女房と子供の冷たい視線が・・・。

 日本に帰ってから、私がどうなったかって?それは皆さんのご想像にお任せします。

つづく