VOL.60 景山公園の思い出

投稿日:2001年6月11日

景山公園の思い出

 紫禁城の路を隔てた北側に小高い丘があります。頂きには赤い中国風の建物が建っています。景山公園です。この春、私は取引先を伴って丘にのぼりました。鮮やかな黄色の迎春花に昔の思い出が蘇りました。

1.85年秋

 勤めていた自動車メーカーを辞めました。病気の母に実家に戻るよう懇願されたからでした。赴任先の松山から大阪行きのフェリーに乗りました。4人部屋の二等船室では元プロ野球選手のご夫妻が一緒でした。

 親しくなって、上田正樹の「悲しい色やね」を歌うと、自分の息子の好きな歌ですと、教えてくれました。丁度母の実母が亡くなりましたが、母は「おまえが家に戻るのを見届けて、安心したから亡くなったんやわ。」と言いました。

2.初めての景山

 やがて母の先は長くないことが解りました。実家の酒造りの商売も、規制緩和が進む中では、厳しい状況が続きそうです。私は仕事を探すことにしました。

 その頃は、中途採用など雇用の流動化は今ほど進んでいません。何か特技でも無ければ、大きな企業は相手にしてくれません。

 その時、中国語に思い当たりました。大学で中国の法律雑誌を読んでいたので、会話能力を補えば良いでしょう。当時中国語のできる人は多くありません。

 翌年、北京の大学が夏休みを利用して開く6週間の短期講習に参加しました。

 中国語を学ぼうとする人々が世界中から集まっていました。

 その6週間も終わりに近づいた頃、景山公園に出かけました。急な階段を昇り切ると、紫禁城の中心線の延長に自分が立っていました。紫禁城を眼下に見下ろします。

 遠くその南まで北京の街が一望できました。誰もが共通して得るこの素晴らしい感動も、将来への不安で少し曇っているようでした。

3.94年暮れ

 9年ぶりに北京に降り立ちました。前年に再び実家の事情から、勤めていた総合商社を辞めていました。今度は、天津に清酒、しかも純米吟醸という高級清酒に特化した蔵元を設立する為にやって来たのです。

 翌年早々会社を設立し、年内に工場建設、設備選定、据え付け、従業員の雇用・訓練、試験醸造と肉体的・精神的に限界を覚える程のスケジュールでしたが、ほぼ予定通りに進めることができました。

4.98年春

 販売も順調に量を伸ばしていた矢先、ライバルメーカーが出現しました。販売数量に影響が出始めました。更に、会社の立ち上げから3年間、休み無しに働いて来た疲れがピークに達していました。そんな状態の時に、知り合いの方が気を遣ってくれたのでしょう、北京のあるバーに誘われました。

 高級店であれば、働いている女性の器量は勿論ですが、言葉や話題の点からも一定の水準が要求されます。そのせいか、大学生のアルバイトが多いようです。大学の授業料は物価水準から見て極めて高く、昼間は学び、夜はアルバイトという学生が結構居ます。

 私の話し相手は、4年制大学を卒業して昼間は外資系企業に勤めるキャリアウーマンでした。日本語を話します。彼女の養父母が朝鮮族だそうで、韓国語も話せます。

5.「どうして夜も働くの。」

 私の質問に、だいたい次のように答えてくれました。

 「最寄りの街からでも、舗装の無い路を牛車で何時間もかかる農村に育った。養父母の実の子は男3人、彼女は三番目としてもらわれて来た。食べていくのがやっとの生活、それでも勉強ができた彼女だけは何とか大学にまで進学させてもらった。

 未だに貧しい生活をしている養父母、それに自分の為に義務教育を受ける機会さえも得られなかった兄弟に、仕送りをする為に働いている。」

 中国ではどこにでもある話しかもしれませんが、聞いた私は、疲れを癒すどころか更に落ち込んでしまいました。私も仕事がつらいことを話しましたが、話しているうちに自分の苦労など彼女に比べるべくもないことに思い当たりました。

 話した自分がばかばかしくなり、白けた気分でホテルに帰りました。

6.翌朝

 一夜明け日本に戻る日です。午後のフライトですから昼まで時間が空いています。春の陽気に誘われて、ふと景山公園に行ってみる気になりました。

 北京の春は急に訪れます。新緑が美しく輝いています。紫禁城を見下ろしながら、夕べの彼女の苦労話に、仕事を続けていく勇気が湧いてきていることに気付きました。迎春花の黄色い花が咲いていました。

つづく