「フロッピー、どこに行ったんや!」
年賀状書きの時期になって住所録を入力したフロッピーが見つからずに大騒ぎしていた人がいました。
実は私なのですが、結局ハードディスクにバックアップデータが残っていました。記録を機械に頼れる現代人は本当に幸せです。
1.司馬遷
紀元前二世紀、今から二千百年以上も前に書かれた歴史書が「史記」です。紙も未だ発明されていない時代ですから、竹簡(竹を薄く削って紐で綴じたもの)に書かれました。
周の共和元年(西暦紀元前841年)からは年表が付いています。ということは、彼が生きた時代の更に七百年以上も前から連綿と記録が受け継がれて来たことを示しています。
2.共和元年
この年、周王が都から逃げ出しました。余程の混乱があったのか、それ以前の記録が無くなったのでしょう、少なくとも司馬遷の時代までは受け継がれませんでした。
次の王が即位して年号が変わるまで王が不在でした。それで近代に「REPUBLIC」を漢字に訳す時に、王が居ない政治体制ということで「共和国」としたそうです。
3.殷墟の発見
司馬遷は、周の前に商、商の前に夏の各王朝が存在したことを記しています。
20世紀初頭、薬の材料として売られていた甲骨に文字らしきものが書かれていることに着目、それが出土する場所から商の都・殷墟が発見されました。
甲骨に書かれていたのは、紀元前14世紀、商がそこに遷都してから滅ぶまでの二百数十年の占い記録でした。驚くべきことに、その記録は史記に書かれた王の系図とほとんど一致したのです。
こうして商の実在は確認され、その商は紀元前18世紀頃、中原の主になったと考えられます。
商が滅んだ後、人々は中国各地に散り散りになりました。やがて互いに各地の産物の交易を行う様になりました。これが「商人」の語源となりました。
4.夏王朝
「中国四千年の歴史」と言う場合、夏の存在を前提としていることになります。
皆さんは、中国古代の焼き物、彩陶と黒陶の写真は御覧になったことがあるでしょう。その内、黒陶を生んだ文化を竜山文化と呼びますが、商の一つ前の時代の遺跡にあたります。ですから、夏が実在したとすれば、竜山文化がそれに当たると考えられます。
竜山文化の遺跡からは、城壁の跡が発見されています。又、貝殻が多く出土します。漢字でお金に関係するもの、貨・財・貸・買などには貝が付いていますから文字が発明された頃には貝を貨幣にしていたのでしょう。文字のあった商に先立つ時代ですから、符号するように思われます。
5.少林寺
夏王朝の創始者とされる禹(う)は、伝説では二人の奥さんを持っていました。古来から聖なる山とされる河南省の嵩山(すうざん)には二つの頂きがあり、低い方の頂きの麓には若い方の奥さんが住んでいました。少室山と呼びます。この場合の「少」は、「青少年」などと同じく若いという意味です。ですから、若奥さんの山です。
時代は下って北魏(唐の前、中国の北側を治めた仏教を保護した王朝)の時代、そこに寺院を建てました。そしてインドから招かれた達磨大師が禅を始め、肉体の修養に武術を取り入れました。少室山の林の中の寺、即ち少林寺と呼ばれました。
6.目を転じれば
中谷酒造本家のある大和郡山市東部には、水田が広がります。田植え時ともなると水の世界に集落と鎮守の森が浮かんで見えます。営々と続くように思われるこんな景観も、実は司馬遷が生きた頃に水田稲作が伝わってからのものに過ぎません。
当時既に二千年近い歴史があって、それが記録され続けて来たというのです。
直ぐそばの体育館では、週に二回少林寺拳法の道場が開かれます。「拳法の名前は、夏の伝説に由来するのか。」そんなことを考えたら、「四千年の歴史」も少し身近に感じられました。
つづく