「上海で一番にぎやかな通りはどこですか。」
取引先の事務所に日本から出張でやってきた若い人が尋ねています。
「そんなことは、来る前に自分で調べてきなさい。」
日本人の所長が冷たく突き放します。私も思い当たる節がありますので、ニヤリとしました。仕事の忙しさにかまけて情況も良く調べずに旅することが多かったからです。
1.城壁の街
上海は19世紀のアヘン戦争後、英米仏の租界建設に始まると思われていますが、実はその前に城壁に囲まれた街があったのです。租界時代に城壁は取り払われ、現在、人民路と中華路と呼ばれる直径2キロ程の環状道路になっています。
国(國)という字は、四角で囲まれています。これは城壁で囲まれた都市を意味します。中国古代は、都市国家の時代でしたので、この字が国を意味することになりました。以来四千年、都市を城壁で囲むことが続けられ、新中国成立まではほとんどの都市に城壁がありました。
現在その大部分は取り壊され、環状道路になっていますが、西安の様に残っている都市もあります。上海の隣りの蘇州でも一部が観光用に残っています。現代中国語で都市の事を「城市」と云うのもその名残りです。
2.「香港に似ていますね。」
友人の一家が上海に旅しました。奥様の最初の感想です。
上海は、租界時代に世界有数の大都市に発展しました。先の環状道路の直ぐ北側に、東西に延びる広い路があります。延安路です。東に進むと間もなく黄浦江と呼ばれる揚子江の支流にぶつかります。
その一帯から北に向かって一キロ余り、黄浦江沿いに石造りの重厚なビルが続きます。英語を使って「バンド」、中国語では「外灘(ワイタン)」と呼ばれるエリアです。銀行、船会社、貿易会社、ホテルなどであったビル群は、かつての繁栄をしのばせます。上海のシンボルとして写真などでも馴染みの場所です。
3.和平飯店
外灘の中程にあるこのホテルもその一つです。往時のジャズバンドも復活し、観光客で賑わいます。ロビーは天井が低く照明も暗いので煤けた感じですが、昔は現在の中二階はなく、吹き抜けが高かったものと思われます。
廊下も壁が安っぽい色に塗られ、ドアなどの木の部分も木目が粗く感心しませんが、他にはない落ちつきがあります。又、当時の建物群に囲まれ、「オールド上海」を感じるには最高の立地です。
4.「犬と中国人は入るべからず」
延安路の北側が英米日の共同租界、南側がフランス租界でした。共同租界の公園(注)に、こんな札が立てられました。租界には、多くの中国人も住んでい ましたが、これらの人々は差別されていました。
中華民国が成立し、民族意識が高まるにつれ統治組織に中国住民の声が反映され、この看板もはずされたそう です。中華民国は、租界から多くの税収を得てはいましたが支配は及びません。最終的に租界が中国に返還されたのは日本の敗戦後となりました。
注:1868年、英国人のための公園として建設され、やがて6項目の公園規則が設けられた。「その1、犬と自転車は不許可」・・・「その5、外国人に従 う従僕以外の中国人は不許可」。
一般に言われているように犬と中国人を同列に並べたストレートな表現があったのではない。
5.観光資源
上海には観光資源が乏しいと云われます。確かに予園に行っても、コンクリート製の九曲橋を見せられては幻滅です。航空会社にいただいた十数ページの冊子の主たる内容も、食事、ホテル、買い物などです。
ホテルの窓から街を眺めてみましょう。租界時代の洋館、中国風のアパートなどたくさん残っています。街を歩いてみましょう。フランス租界と共同租界とでは建物の雰囲気が違います。
一方で、無料の環状高速道路から見る街は、高層ビルで埋め尽くされ、中国経済の中心であることを思い知らされます。黄浦江を渡れば、広大な浦東の開発区が広がっています。
皆さんはもうお解りでしょう、上海は街そのものが観光資源です。そしてそれは、上海という都市の成り立ち、地理的位置、現在の置かれている役割を知ることによって味わうことができます。
6.冒頭の問い
さて答えですが、何れも延安路に並行して東西に走る南京路と淮海路(わいかいろ)です。前者が共同租界側、後者がフランス租界側です。繁華なだけではありません。路地にも入ってみて下さい。古い街も味わうことができることでしょう。
もちろん、その前に上海についての知識を仕入れるのをお忘れなく。
つづく