日中の関係をこのように表現する方も多いようです。衣帯とは、着物の帯のこと、則ち帯ほどの僅かな水路を隔てた間柄ということでしょう。先日のニュースで弥生人と、同時期の中国江南地方(揚子江下流域)の人骨のDNA配置が一致した事が報じられました。
古来日本は、今まで考えられてきた以上に中国大陸の影響を受けてきたようです。
1.弥生人のルーツ
紀元前3世紀に突然、それ以前に住んでいた縄文人とは直接繋がらない人々が入りはじめ、それまでの何倍かの密度で日本列島を覆い尽くしました。その人々は水田稲作を営んでいました。
水田稲作の起源が揚子江流域で、当時江南地方一帯に広まっていたことから、水田稲作が江南から伝わったと推定されていますが、弥生人そのものがどこからやってきたのか、今まで多くの議論が行われてきました。
2.最初の統一国家
その頃、中国では戦国時代の末期です。中国文明は比較的乾燥した黄河流域に生まれ、麦作を主体としており、当時はまだ西域や東北地区はもとより、稲作を中心とする揚子江以南の大部分が含まれていません。
文明に組み込まれた地域であっても異民族を同化できないまま多く抱えていたのです。米作を行う江南地方も異民族の土地だったのです。
秦でさえも、もともと中原(黄河中流域)をはずれた西の端に位置し、西域の騎馬民族の影響を色濃く受け継いでいました。
その世界を紀元前221年に秦王が統一しました。そして初めて皇帝を称したことから始皇帝と呼ばれます。滅ぼされた国々からは多くの亡命者や移民・難民が出たに違いありません。
3.徐福伝説
江南地方の北隣、山東省の南端に徐福という男がいました。不老長寿の薬を探すことを名目に始皇帝をスポンサーにして、東海の蓬莱山を目指して旅立ち二度と戻ってこなかったのです。当時山東省あたりには航海に長けた人々が暮らしていたようです。一方、和歌山など日本各地には、大陸から技術・文化を伝えたとして徐福が祭られているのです。
4.日本語のルーツ
その後、秦は直ぐに滅びますが、次に興った漢帝国が巨大な版図を広げやがて江南地方に残った人々は、漢民族に同化されていきました。言葉も漢語を話すようになったことでしょう。
漢帝国が衰え東アジアが混乱した時に、中国東北部から南下してきた騎馬民族の一派が4世紀に朝鮮半島を経由して日本に入りました。大和王権の誕生です。彼らは支配層を形作ったのみで、基本的な稲作農民の基礎は崩れることなく現代に続きました。
この事から、弥生人が話していた言葉が今の日本語のベースになったと思われます。今後の研究で多くの弥生人が江南から来たことが立証されれば、昔は中国江南地方に日本語を話す日本人が住んでいたことになり、現在も同じ血が流れているかと思うと、ちょっと不思議な親近感を感じます。
5.今に続く交流
その後、7世紀に隋が再び中国大陸を統一し、すぐに唐が後を継いで安定すると、日本では大陸との関係を重視し始めます。大化改新が起こり朝鮮半島と関係の深かった勢力は一掃され、唐の制度をそのまま日本に移植する試みが始まります。長安を模倣した巨大都市、藤原京・平城京が生まれます。今に続く日本文化の基礎が作られていきました。
それから約千三百年、交流は続き、現在では史上空前の活発な人・物・金の往来があります。そんな壮大な歴史の流れに心が遊ぶひととき、異文化の中で仕事をすることの厳しい現実をしばし忘れることができます。
つづく