<酒蔵の様子>
6月10日に田植えをしてから1ヶ月。苗の生育は順調です。背丈は20センチほど。田植え時に出ていた根とは別に、新しい根が出て地面に張り出しました。「根付き」と言います。
今年の気温はやや低め。生活上は過ごしやすいのですが、苗にとってはもう少し気温が上がっても良いところです。梅雨前線が上がったり下がったり、雨が降ったり曇ったり。時折差し込む日射しは強烈です。
写真:根付いた苗
<今月のテーマ> 熱田神宮 <後編>
熱田神宮。今回は、三回シリーズの最終回です。
天皇権力の象徴とされる三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)をまつるが故に伊勢神宮に次ぐ権威ある神社とされています。今日に至る「権威」の盛衰を追います。
7.尾張氏
熱田宮は最初、国造(くにのみやつこ)尾張氏が祭祀を執り行ったとしています。「国造」という古代の地方官の名称を根拠に熱田宮の創建時期を語るのは早計です。地方官の名称が変更された奈良時代以降も国造の役職名が形を変えて残っていたからです。
例えば阿波国造墓碑(あわのくにのみやつこぼひ)には、養老7(723)年と刻まれています。ちょうど熱田宮が創建されたと推測される時期です。国造という役職は、特定の祭祀を行う為に世襲を前提として任命されたものです。
8.藤原氏
平安時代末期からは、藤原氏が祭祀を行うようになります。そもそも熱田宮を含む「神社」というものは、藤原不比等(ふじわらふひと)が藤原政権維持の為に古事記、日本書紀を通じて創造した歴史を目に見える形に具体化したもので、中身の乏しいものでした。
神官の役目は神社の「形」を維持することにありましたので、藤原氏が祭祀を行うことは好都合でした。間もなく鎌倉時代を迎えますが、熱田宮が支配する豊富な荘園が残り、経済的に安泰でした。鎌倉幕府の創始者源頼朝(みなもとのよりとも)の生母が大宮司藤原季範(ふじわらすえのり)の娘であったことも幸いしました。
9.社格と神仏習合
平安時代から正一位という神階の高さを誇り、鎌倉時代以降も尾張国一宮(いちのみや)真清田神社(ますみだじんじゃ。一宮市)、二宮(にのみや)大県神社(おおあがたじんじゃ。犬山市)を凌ぐ神社でした。
足利幕府の三管領の一つ斯波氏は、1550年頃まで一貫して守護として尾張国を統治し、熱田宮も斯波氏のもとで安泰に維持されました。
享禄二年(1529)年前後に書かれた絵図の写しを見ると神社の南側には仏教寺院の建築群が見えます。中でも巨大な五重塔が目を引きます。ほとんどの建物は瓦葺き朱塗りの仏教建築です。
熱田宮でも他の神社同様、平安時代から神仏習合が進んでいました。残念なことに、江戸前期の荒廃期と明治維新の廃仏毀釈を経たため、往時の宗派はもとより主仏の名も解りません。
10.戦の神
斯波氏は守護の地位を失います。尾張を支配した織田信長は、生涯に一度だけ劣勢の戦いを挑みます。尾張という小国から全国制覇を目指すには避けて通れない大博打でした。
この桶狭間の戦いの戦勝祈願に熱田宮を訪れた信長は、勝利の後に立派な塀を寄進します。現在も残る信長塀です。信長は塀以外にも多くの建物を寄進しますが、この頃熱田宮は少なくとも「戦の神」としての実質的な信仰を持つ寺院に変貌していたことが窺えます。
11.江戸時代
検地により荘園制は終焉し、熱田宮の主たる経済基盤がなくなります。これ以降は、徳川幕府により配分された石高収入等によって維持されました。
熱田宮の門前町は、東海道五十三次の宿場町、宮(みや)として栄えますので参拝者も多く観光収入で潤っていたはずですが、寛永7(1630)年に奉納された佐久間灯籠以降、正確な年代は不明ですが衰退します。この時期に多くの記録が失われたと考えられますが、少なくとも天台宗の寺であったことが明らかになっています。
貞享3(1686)年、徳川五代将軍綱吉が再興。綱吉が帰依した真言宗豊山派の寺として生まれ変わります。
12.明治以降
明治維新の廃仏毀釈により、ほとんどの建物は破壊され、記録も失われてしまいました。
新たに国家神道を担う熱田神宮としての再出発です。三種の神器「草薙剣」を祀っていることが権威付けに役立ちました。大日本帝国拡大の為に戦争が続きましたので「戦の神」として大繁昌しました。しかし、敗戦を経て平和国家になった現代日本では、何とも収まりの悪いことになってしまいました。
江戸時代の本殿は、現在の神楽殿の位置にあり、そこから南に参道が延びていました。今は宝物館で途切れていますが、参道に並行する細い道です。これに沿って建つ清雪門、或いは南新宮社あたりが寺の東門でした。現在、別宮が建つあたりに寺の主要建物があり、そこが参拝の場所でした。江戸時代の信仰を知る手掛かりは何も残されていません。
熱田神宮終わり
写真上:尾張国一宮・真清田神社
写真中:信長塀
写真下:熱田神宮別宮