酒米の田植え vol.43

投稿日:2008年6月12日

<酒蔵の様子>

成長した苗

 5月の連休明けに酒造好適米・山田錦の苗代を作りました。それから1ヶ月。苗は10センチから15センチほどに生長しました。

 6月に入るなり奈良は梅雨入りしましたので、雨や曇りがちの日が続きましたが、6月10日は梅雨の合間の日射しに恵まれ、絶好の田植え日よりになりました。

 中谷酒造管理田は3枚。面積は合わせて3反半。朝から始めて午後3時には終了。山田錦は、食用米に比べて背が高くなりますので稔りの時期に倒れないように根を深く、広く張らせる必要があります。できる限り疎に植えました。こうしますと、太陽光が根本に届き、根は地面の奥を目指して伸びていきます。

 これから夏にかけて、水を切らさぬよう、といって水が多すぎないように管理をします。

快調に進む田植機

田植えの終わった田

写真上:成長した苗
写真中:快調に進む田植機
写真下:田植えの終わった田

<今月のテーマ> 熱田神宮 <中編>

 熱田神宮。今回は、三回シリーズの中編です。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)を含む王権の象徴、三種の神器とは何だったのでしょう。この謎に迫ります。

4.三種の神器とは?

出雲大社

 曲玉(まがたま)、鏡、剣の三種とされています。日本書紀と古事記では、太陽神アマテラスがニニギを地上支配に派遣するにあたって持たせたと書いています。

 三種の選別にあたっては次のことが推測されます。

 <前編>で3世紀末、九州から「神武(じんむ)東征」があり、「崇神(すじん)」が奈良県を中心とする広い地域を征服したと述べました。出雲大社境内の発掘により4世紀の遺物の中から曲玉が発見されています。曲玉は、征服されたいわゆる出雲族、或いはそれ以前の弥生時代の信仰と関係がありそうです。

 鏡は、「崇神」の太陽信仰を象徴しているようです。「神武」、「崇神」は邪馬台国の「ヒミコ(日の巫女)」の名前が示す太陽信仰を九州からもたらしたのです。

 剣は、5世紀に九州から東征してきた「応神(おうじん)」の武力を象徴しているようです。天皇家がその権力の象徴として剣を代々継承するヒントは応神と共にやってきた豪族、物部(もののべ)氏にありそうです。5世紀の王権を支えた物部氏の氏神を祀る石上神宮(いそのかみじんぐう。奈良県天理市)には、百済から伝わった七支刀と呼ばれる神剣が祀られています。

5.面白い話

 日本書紀の天智天皇7(668)年に「僧道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げようとしたが途中で風雨に遭い迷って戻ってきた」とあります。道行は新羅人とされています。

 作り話ではありますが、行間から面白いことがうかがえます。日本書紀の構想が練られていた当時、高度な宗教施設といえば仏教寺院しかありません。新羅という外国の仏僧が、日本国の支配者たる天皇の、しかも権威を象徴する神剣を祀る神社に接触することができたのでしょうか。「神剣を祀る、祀るといえば仏教、従って仏教僧侶が出入りする」という感覚が日本書紀創作時に入り込んだに違いありません。

6.普通名詞としての三種の神器

新羅僧が剣を盗んで出たという清雪門

 代々受け継がれてきた天皇の権力と統治の象徴である三種の神器ですが、平安時代に焼けた鏡はその後補ったのか、平安末期に安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだのであるから現在皇室には三種の神器が受け継がれていないのではないか、といった疑問が投げかけられてきました。これは基を正せば、明治維新政府の国家神道政策が生み出した問題なのです。

 三種の神器は権力の象徴として天皇に継承されていくべきところ、古事記と日本書紀の記述によりますと途中で大陸の影響を受けたのか御璽(ぎょじ。最高権力者の象徴としての印鑑)に代わったりした上で、藤原不比等(ふじわらふひと)の時代の持統天皇は鏡と剣だけを継承しています。三種の神器は、一貫して受け継がれたとは記述されておらず、おまけに「三種」がセットであったとも書かれてはいません。

 古事記、日本書紀を作らせた藤原不比等が天皇の権威付けの一環として曲玉や鏡、剣を挙げたに過ぎないのです。天皇家に受け継がれていたとしても紛失すれば造り直されたのです。にもかかわらず明治維新政府はニニギが天から持ち下った特定の「三種の神器」を強調し、結果として固有名詞としての「草薙剣」が「三種の神器」になり、熱田が「神宮」を名乗ることになったのです。

<後編>に続く

写真上:出雲大社
写真下:新羅僧が剣を盗んで出たという清雪門