<酒蔵の様子>
今シーズン、搾られた原酒の火入れ作業は全て終了しました。酒造りの道具類の片づけが進んでいます。
一方で、酒米作りの作業が始まりました。弊社では、自社管理田で酒造好適米・山田錦の栽培をしています。今月は、苗代作りです。
苗代用パレットに砂を敷き、種籾を蒔いてから栄養のある土を上からかぶせます。スズメに食べられないように黒い寒冷紗で覆ってできあがり。一反当たりパレット20枚、3反ですので60枚のパレットを仕上げました。
毎日水をやって、約1ヶ月で背丈が10センチほどになります。田植えは、来月中旬です。
写真左:種まきを終えたパレット
写真右:寒冷紗で覆って、水遣りのホースを設置して出来上がり
<今月のテーマ> 熱田神宮 <前編>
連休を利用して、久々に神社の取材に行って参りました。目指すは名古屋の熱田神宮。今回は、三回シリーズの前編です。
天皇権力の象徴とされる三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)をまつる由緒ある神社とされています。先ずは創建時期を追ってみましょう。
1.草薙剣
8世紀に書かれた古事記、日本書紀が唯一の根拠です。それによりますと遙か昔の神代、スサノオが出雲の八岐大蛇(ヤマタノオロチ。頭が八つあるヘビ状の化け物)を退治した時に、化け物の体内から出てきた天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を太陽神アマテラスに献上したものです。
古事記、日本書紀の記述はその後、地上の日本(葦原中国:アシハラナカツクニ)の話に移ります。天上の神の世界からフツヌシとタケミカヅチが派遣され、いわゆる出雲族から日本を譲る約束を取り付け、その代償に出雲大社を建ててやります。次に地上支配の為に神々が日本に降り立つのですが、その時に剣も地上にもたらされます。
景行天皇の世(奈良県桜井市に前方後円墳が出現する時期から、4世紀前半と推定されます)、ヤマトタケルが東国を征服に出かけた時に伊勢神宮に祀られていたこの剣を持ち出し、草をないで危難を切り抜けたので草薙剣と呼ばれるようになり、ヤマトタケル死後、その妃が剣を熱田に祀ったのが神宮の始まりとしています。
2.古事記、日本書紀
熱田神宮が創建の根拠とする古事記、日本書紀はなぜ、どのようにして生まれたのでしょう。
天武天皇の死後、藤原不比等(ふじわらふひと)は事実上日本の最高権力者でした。持統天皇を自宅に住まわせて自由に操り、697年には持統の孫を15歳という幼年で文武天皇として擁立し、娘を実質上の皇后にしたのです。
藤原不比等は、それ以前の記録を破棄し、藤原氏に都合の良い歴史を「創造」しました。これを712年に古事記、そして720年に日本書紀という形にまとめたのです。そこに書かれた歴史では、神話時代から一貫して現王朝、即ち藤原政権に続くことになっています。その目的は、藤原政権の正統性を主張し、その永続を狙ったものに他なりません。
3.神社建設
不比等は、「創造」した歴史を可視的な形あるものにする為に、古事記と日本書紀で描いている主な王や神を祀る神殿を建設して行きました。
不比等は神話の時代から始めて、万世一系として天皇を描きましたが、考古学上の成果や中国、朝鮮半島の記録との突き合わせによって、少なくとも3回の王統の断絶があった可能性が高まっています。不比等は滅んだ王朝毎に神を祀ったようです。
3世紀末、奈良県桜井市で前方後円墳の造営が始まります。九州から「神武(じんむ)東征」により、「崇神(すじん)」が奈良県を中心とする広い地域を征服したのです。敗れた側、いわゆる出雲族の信仰は出雲(島根県出雲市)と三輪(奈良県桜井市)に祀りました。
征服者である「崇神」の信仰の内、太陽信仰以外を大和(おおやまと。奈良県天理市)に祀りました。太陽信仰は、天武天皇が既に伊勢に祀っていました。
5世紀初、馬と馬具を持ち込んで旧勢力を打ち破り、巨大な前方後円墳を築いた「応神(おうじん)」の信仰は住吉(大阪市)に祀りました。
そして神話の中に登場し、伊勢神宮とも関連する「草薙剣」を祀ったのが熱田神宮の始まりです。そんなことから8世紀初頭以降、おそらく奈良時代の創建と推測されます。
<中編>に続く
写真上:熱田大社本宮
写真下:大和神社