<酒蔵の様子>
水田では稲が順調に生育しています。株分かれが盛んで、高さも数十センチになりました。葉の色も緑がぐんと濃くなり密度が高くなりました。
酒蔵では静かに「時」が仕事をしています。貯蔵タンクの中の酒が熟成するには時間が必要なのです。
タンクの中の酒の温度は、気温の変化に比べると非常にゆっくりと上がっていきますので、タンクに触れると未だ春の気温の冷たさが残っているようです。タンクが並ぶ蔵の中は、涼しく感じます。我々は、こうして夏を越えて熟成した酒を瓶詰めして出荷します。
時が仕事をするかたわら、瓶を洗って、酒を濾過して、瓶詰めをする一連の作業が定期的に行われます。酒造りの従業員達は、この期間を利用して交代で休養します。
<今月のテーマ>
今回は、金刀比羅宮の最終回。
明治時代を迎え、金比羅神の信仰は消滅します。引き続き観光客を集める為に考案された現在のシステムと、その隣に細々と残った「松尾寺」の対比は、信仰と観光の二つの観点から考えさせられるものがあります。
金刀比羅宮<第四編> 金比羅信仰の消滅
9.現在の姿
明治の廃仏毀釈で仏教的要素を持つ金比羅大権現という神は消え去りました。その誕生から三百年足らずで歴史を閉じたのです。象頭山松尾寺だけではありません。日本全国に分祀されていた金比羅大権現は、大物主と交代するか、寺院を破壊されて消滅しました。
松尾寺のほとんどの仏像は焼却されましたが、金比羅大権現を意味した十一面観音像は焼却を免れ、宝物館に展示しています。侍仏の不動明王像と毘沙門天像も難を逃れ、岡山の真言宗西大寺観音院に祭られています。
観音堂はもとより、多宝塔や釈迦堂など多くの建物が破壊されました。境内で最も立派な建築物であった金堂が、旭社(あさひのやしろ)という意味不明の名称を与えられて残されたのは不幸中の幸いです。金光院の主要建物も書院として残されました。
10.「松尾寺」の痕跡
今日、参道の石段を登り初めて間もなく、左側にある海の科学館の更に左手奥の石段の上に松尾寺があります。こぢんまりした境内は、訪れる人も少なくひっそりとしています。
この寺は廃仏毀釈の嵐の中で、仏教と金比羅大権現信仰を守ろうとした松尾寺普門院の宥暁らがかろうじて寺名を受け継いで残したものです。廃仏毀釈の嵐が去った後、この松尾寺はかつての「大松尾寺」の復活を目指して、神社に生まれ変わった金刀比羅宮と訴訟で争いましたが、結局かないませんでした。
11.偉大なる名称
争いを通して、「金比羅大権現を祀る正統な後継者」を主張する松尾寺と、「国家神道の基に新しく作られた神社」という両者の立場が明確になりました。しかし金刀比羅宮にとっては、「かつて金比羅大権現を祀っていた松尾寺の跡地に、明治時代に新しくできた大物主を祀る神社」ではさまになりません。宮の経営も、門前町の人々の生活も、市の財政も、「金比羅参り」の観光収入で成り立っているのです。
ですから宮は、「大物主(おおものぬし)」が金比羅神と一切関係がないことを百も承知の上で、金比羅神との関係を暗示しながら「大物主信仰の伝統と正統性」の虚構を主張せざるを得ないのです。その労力を圧倒的に軽減してくれるのが「金刀比羅(ことひら)」という「金比羅(こんぴら)」を暗示する名称です。「刀」の一文字を加えただけの誠に紛らわしいものです。
最初は「琴平神社」と名乗ったと言います。最終的にこの「金刀比羅」という名称を考えた人こそ金刀比羅宮の教祖と呼ばれる資格がありそうです。
<金刀比羅宮終わり>
写真上:書院(元金光院)
写真下:松尾寺