酒米の田植えと金刀比羅宮<第二編> vol.31

投稿日:2007年6月11日

<酒蔵の様子>

田植え

 低気圧が入り乱れて、比較的涼しい6月を迎えましたが、日射しは日増しに強まります。からりと晴れ渡った6月7日、酒造好適米・山田錦の田植えをしました。

 朝から気温はぐんぐん上がり、日中は30℃に近づきました。田んぼの水面を渡る風は心地よく、田植え機は順調に進んで行きます。

 田の畦(あぜ)には渡り鳥が巣を作り、子育ての真っ最中。我々が近づくと低空飛行で威嚇してきます。鳥にとっても稲にとっても新しい生命が育つ時期です。

<今月のテーマ>

今回は、金刀比羅宮の第二回目。金比羅神の誕生に迫ります。お楽しみ下さい。

金刀比羅宮<第二編> 金比羅神創造と発展

4.金比羅の由来

 「こんぴら」という名前の由来は、ワニの化身とされるインドの水神です。この神は仏教に取り入れられて仏の守護神になり、薬師如来の十二神将の筆頭・金比羅大将(くびらたいしょう)として日本に伝わりました。

 この金比羅大将が金比羅(こんぴら)神になり、「金比羅大権現」という日本の神を擬した名で呼ばれるようになるのです。本地垂迹説から言えば、仏が神に姿を変えて現れたものが権現です。

 先に神が存在し、後から入ってきた仏教の仏と結びつけられるのです。例えば、伊勢のアマテラスは大日如来が姿を変えたものとされました。「金比羅大権現」の場合、神の名前が仏の守護神と同じということは、その神自体がもともと存在しなかったことを示しています。

5.金比羅大権現の誕生

教祖宥盛を祀る奥社

 「金比羅神」の痕跡は、元亀4(1573)年の「金比羅赤如神宝殿」の棟札が最初と言います。金比羅神の歴史を更に遡ろうとする試みもありますが、今のところ成功していません。そうであれば、金比羅神はそれまで存在せず、この頃初めて登場したと考えるのが素直です。これは実に「教祖」宥盛が松尾寺に居たと考えられる時期に重なります。

 宥盛が「教祖」として神様になることができた最大の功績は、仏教の金比羅大将を基に金比羅神を発案し、「金比羅大権現」を作り出したことにあるのではないでしょうか。若くして高野山に学び、金比羅神創造を思いつき、故郷に近い新興の松尾寺をその登場の舞台に選びました。

 早速、金比羅大権現は讃岐を支配下に収めた戦国武将・長宗我部元親の支持を得て一躍有名に成り上がったのです。宥盛はその功績で第四代別当の地位に登り詰め、死後は「教祖」として神になることができたのでしょう。

6.松尾寺の発展

 「教祖」宥盛の後を山下宥睨が継ぎます。これ以降、山下家が寺の最高位「別当」の地位を世襲します。宥睨の時代に寺は目覚ましい発展を始めます。参道の入口の金倉川に初めて橋が架けられたのが寛永元(1624)年、鳥居ができたのが寛永10(1633)年です。

 参拝客が増え、門前町ができ始めました。長宗我部氏に代わる新しい讃岐の支配者生駒氏も金比羅の町が発展するように税を軽減しました。宥睨は正保2(1645)年に亡くなりますが、その後を継いだ宥典の時代には更に発展して行きます。

 生駒氏の後、高松藩主松平氏にも庇護され、建物の修復や寄進を受けます。やがて全国から参拝者がやってくる大きな波が訪れます。丸亀藩や多度津藩には莫大な観光収入がもたらされました。

<第三編>へ続く

写真:教祖宥盛を祀る奥社