皆造(かいぞう)と火入れ vol.29

投稿日:2007年4月23日

<酒蔵の様子>

郡山城址の桜

 3月末に咲き始めた郡山城址の桜、ことしは寒の戻りのおかげで3週間も楽しむことができました。

 4月6日、今季最後のもろみを搾りました。酒をみな造り終えたということで、「皆造」(かいぞう)と言います。蔵人(くらびと)の慰労を兼ねて皆造の祝宴を開きました。新酒で乾杯し、酒食を楽しみました。

 皆造の後も「火入れ」作業が続いています。気温が上がるにつれ雑菌が増殖しますので酒はそのままでは夏を越せません。そこで加熱殺菌し、タンクに密封するのです。この殺菌の作業を火入れと言います。

火入れ桶

 100℃まで加熱しなくても、ある程度の温度で一定時間経過させると菌が死に絶える低温殺菌の原理は、細菌学者のパスツールが発見したとされています。ところが、日本ではそれ以前の江戸時代からこの方法が造り酒屋で実用化されていました。

 昔は釜で酒を煮ました。高温にすれば容易に雑菌は死に絶えますが、高温は酒の風味を傷めますし、せっかくのアルコールも揮発してしまいます。蔵人が指の感覚を頼りに丁度良い温度になったら加熱を止めて桶に移して密封したのです。

 今は、熱湯を張った火入れ桶に入れられた蛇管の中を酒が通る間に60℃を越えるまで加熱し、貯蔵タンクで一定時間60℃を維持させます。その後はタンクに水を掛けて冷やして、酒の風味をできるだけ守るように早めに冷まします。

 タンクに密封された酒は、暗く涼しい酒蔵の中で、秋の訪れまで静かに熟成の時を過ごします。

<今月のテーマ> 番条の氏神様

 明治政府は江戸時代の国学をヒントに、太陽神・天照(アマテラス)を皇祖神として国家神道を始めることにしました。それまでは、神仏習合といって神と仏は混合していました。

 平安時代以降、本地垂迹説によって、神々は仏が形を変えて権現(ごんげん)として現れたものであると考えられ、仏が主で神が従として祀られていたのです。おまけに江戸幕府は、キリシタン排除のために檀家制度を敷きましたので、日本人は仏教寺院毎に戸籍を管理されていました。

 政府は、明治元(1868)年3月に神仏分離令を出しました。これを受け、多くの仏教寺院が破壊されました。興福寺のような大きな寺でも僧侶は春日大社の神官に転籍になり、多くの建物が破壊され、五重塔も売りに出されたのです。中谷酒造のある番条でも光明寺が破壊されて熊野神社に建て替えられました。幸い、主仏の阿弥陀如来像は、同じ番条内の阿弥陀院に移して難を逃れました。

 この時の様子がわかる文書の写しを中谷家の本家にあたる鈴村家当主鈴村文夫氏から頂戴しました。明治二年四月に神主・井筒相模、番条村庄屋・鈴村磯次郎(文夫氏の先祖)、同年寄・井筒多次郎連名で民事局社寺方御役人に宛てた「神社明細記」です。

主神 熊野皇太神 祭神 イザナギ、イザナミ (元 十六社権現)
末社 厳島神社 祭神 イチキシマ姫 (元 弁財天女社)
  八王神社 祭神 五男三女 (元 八王子)
  春日神社 祭神 アメノコヤネ (元 春日明神)
  住吉神社 祭神 三筒男 (元 住吉明神)
  神明宮 祭神 オオヒルメムチ (元 不明)

 村の結合の中心は、十六社権現の祭祀を行う宮座でした。十六社権現という聞き慣れない名前は、熊野十二社権現(熊野本宮に祀る神。ケツミミコ、イザナギ、イザナミなど計十二神)に箱根、三嶋、伊豆、熱海四社の権現を加えたものであることが昭和28年の神社明細書からわかります。

 「権現」とは仏が神に形を変えて現れたものですから、光明寺にはそれに対応した仏が祀られていたはずです。熊野本宮の主仏は阿弥陀如来でしたから、光明寺の主仏も阿弥陀如来でした。

 ただ、熊野本宮は主神をケツミミコにしたのに対し、番条ではイザナギ、イザナミの日本創造神にしたところは神主らの勉強不足かもしれません。八王、春日、住吉、神明の四社は、熊野皇太神の社殿の四隅に立つ小さな社です。

 この内、神明は「元何某」と書かれています。祭神のオオヒルメムチはアマテラスの別名ですから政府の意向に従って新たに加えたものと推測されます。

 弁財天も仏教の守り神ですから神に置き換えなければなりませんでした。弁天様は古くから観音様やイチキシマ姫と習合して混同されていましたので、イチキシマ姫を祀る厳島(いつくしま)神社に衣替えしました。

 昭和28年の神社明細書では、熊野皇太神(社)が熊野神社に名称変更されていること、又稲荷神社が加わったことがわかりますが、現在熊野神社の土塀の外に建つ小さなセンゲン(アサマ)の社は載っていません。戦前からあったと言いますが、長らく物置として使われてきました。近年社の中を整理したところ祭祀の痕跡が発見されましたが、その来歴は不明です。

 私は、三重県第一の霊山信仰の聖地・朝熊山(あさまやま)の信仰ではないかと推測しています。昔から「お伊勢を参らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片参宮」と言われたように、伊勢参りのルートに含まれていました。1925(大正14)年にはケーブルカーがひかれたくらいです(太平洋戦時中の物資供出で廃線)。

 山上には金剛証寺があり、大日如来が姿を変えた雨宝童子を祀ります。大日如来は、神仏習合によって天照大神(アマテラス)になっていたのですから、明治以降の国家神道期にもなじみ易かったことでしょう。雨宝童子は、その名の通り雨乞いの仏(神)様でもあります。

写真上:郡山城址の桜
写真下:火入れ桶