<酒蔵の様子>
10月9日、10日は、山田錦の稲刈りをしました。
好天に恵まれ、日焼けでひりひりするほどです。コンバインは、刈り取りと脱穀も続けてやってくれます。
混じった藁を取り除こうと、鈴村さんに唐箕(とうみ)をお借りしました。なんと、明治時代の年代物。傷みが激しく使えませんでしたが、私にとっては懐かしい物でした。蔵人や高校一年の息子にとっては昔の農作業を学ぶ貴重な機会となりました。
写真上:刈り取り
写真下:鈴村さんの唐箕
<今月のテーマ>
宇佐八幡<中編>です。八幡神は、奈良の都に分祀されます。そして平安京の守護神として石清水八幡が造られます。今回は、八幡神の躍進と神仏習合です。
宇佐八幡<中編> 八幡神の躍進と神仏習合
7.長屋王のたたりと大仏建立
聖武は天皇になりましたが、実質的に政権を握ったのは天武天皇の孫の長屋王でした。そこで聖武は729年、この一族を皆殺しにします。長屋王の変です。
変の後、藤原不比等の子である藤原4兄弟が政権を担い、不比等の娘が聖武の皇后になります。天皇の血を引かない者が皇后になるのは、記紀の記述では仁徳の皇后が葛城氏から出て以来二度目になると言います。
これ以降、聖武は長屋王の霊魂のたたりに悩み続けます。大仏建立を決めるまで遷都を繰り返し、恭仁、難波、信楽を転々とします。
737年、藤原4兄弟が天然痘で相次いで病死。聖武は長屋王のたたりとおそれおののき、翌年八幡宮境内に弥勒寺を建立します。
740年に起きた藤原広嗣の乱もたたりと恐れました。この平定にあたって、聖武は石川東人を征西大将軍に任じて討伐を命じますが、戦の前に八幡宮に戦勝祈願させています。平定後、弥勒寺に三重の塔を寄進し謝意を表しました。
聖武は、長屋王のたたりを鎮める最終手段として大仏建立を思い立ちます。その建立にあたって、最初から最後まで宇佐八幡を頼り、八幡宮と弥勒寺に寄進を行っています。
八幡神の権威を利用すると共に、鉱山開発や高度な金属加工技術を持つ秦氏系の豪族の協力を得る為だったのでしょう。749年、八幡神は大仏の表面を飾る金の鉱山の発見を予言し、的中。同年、八幡神を東大寺の境内に迎え分祀しました。手向山八幡(たむけやまはちまん)です。
8.神仏習合
藤原4兄弟が病死した翌年に境内に弥勒寺を建立しましたが、実は宇佐八幡創建と時を同じくして近くに弥勒菩薩を祀る仏教寺院を建設しており、これを移したのです。このように当初から八幡神と弥勒菩薩は近い関係でした。
おそらく日本で最も速い時期に神仏習合が始まったものと思われ、特に奈良時代末期から平安時代にかけて弥勒菩薩は、八幡神と同化します。奈良時代の終わりに「護国霊験威力神通大菩薩」そして「大自在王菩薩」の名を朝廷から得、八幡神は八幡大菩薩になります。
9.神功皇后
平安時代初期の823年には応神天皇の母、神功皇后を加え、三つを祀る体制になります。
後年書かれた延喜式(927年に完成)によれば、八幡大菩薩宇佐大神、大帯姫神、姫神の三神を祀っていました。大帯姫(おおたらしひめ)は神功皇后のことです。
神功皇后を加えたことにより、八幡大菩薩に重大な変化が生じます。応神天皇から始まる5世紀の王達の信仰であった八幡神が応神天皇そのものを意味するようになっていくのです。
10.石清水八幡
859年(貞観元年)清和天皇の時、宇佐八幡の託宣により石清水八幡を建立、平安京の守り神とします。八幡の建てられた場所は淀川のほとり、継体天皇が即位した樟葉(くずは)の裏山にあたります。
源氏はこの石清水八幡大菩薩を氏神とします。戦に強かった応神天皇がその意識の背景にあったに違いありません。源氏は八幡の白旗をシンボルとします。
一方、平家は百済と同じ赤旗を印としました。平家は桓武天皇を祖とし、桓武の母が百済王の血を引く関係かと思われます。
石清水八幡へは明治まで、天皇の参詣が続きます。
後編へ続く
写真上:東大寺転害門(宇佐の八幡神を載せた御輿が入門した)
写真下:手向山八幡(東大寺境内)