梅雨 vol.20

投稿日:2006年7月21日

<酒蔵の様子>

梅雨に煙る水田

 今年の大和路は、空梅雨を思わせるほど雨が少なく猛暑が続きましたが、梅雨明けを前にして大雨が降りました。この雨は日本全国に被害をもたらしています。被災されました皆様には心よりお悔やみ申し上げますと共に、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

中谷酒造管理田では、順調に稲が生育しています。蔵では、盆前出荷分の瓶詰め作業。

 蔵人は、夏休みの日程を組んでいます。酒造りで忙しかった冬とは対照的に、夏はゆっくりできます。

写真 梅雨に煙る水田

<今月のテーマ> 出雲大社 後編

8.大国主(おおくにぬし)

 3世紀末に出雲に追いやられた一族の象徴として出雲の人々の信仰を集めてきた神ですが、音読みが同じですし、袋を担いでいる姿が似ていますので神仏習合の間に大黒天(だいこくてん)と混同されるようになりました。

 大黒天は、もとはインドの戦闘神です。仏法を守る神として仏教に取り入れられました。やがて袋を担ぐ姿になり、厨房に祀られ食糧の神になりました。

 貨幣経済が広まった室町時代には商売繁盛の恵比寿さんと並べて幸運と財産、子孫繁栄をもたらすとされ、七福神の一人として打出の小槌を持ち米俵の上に立つ今の形が定着します。

 現存の本殿が建てられた延亨元(1744)年の造営にあたっては、江戸幕府の財政難から特別に神職による全国募金活動が許されました。この活動が出雲大社の知名度を上げました。

 その後も布教活動は続き江戸時代が終わりに近づくと大国主は「大黒さん」として広く日本中の庶民に親しまれるようになりました。この時期は、七福神信仰が日本中に大流行したのです。

9.神仏分離の徹底

 明治維新により、国家神道の時代になりました。新しく系統づけられた「神道」という概念から見れば仏教は異質なものですから、神である大国主が仏教の守護神大黒天であろうはずがありません。社内にある「大黒天」を完全に消し去ることになりました。

 大国主そのものに意義を見いだす出雲の人は別にして、大国主が福の神「大黒さん」でなくなれば、ほとんどの日本人にとって出雲を信仰する根拠がなくなるのです。

 出雲大社の一大事です。大社では「人の霊の蘇生更新の中で幸福の縁が結ばれる」とする救いの理念を掲げて教団を組織しました。それは仏教の輪廻転生の概念を含むものでした。

10.大黒天の復活

出雲大社 大黒天木像の販売

 代表的な出雲土産に木彫りの「打出の小槌」があります。言うまでもなく大黒天の象徴です。「出雲大社ゆかりの」を枕詞に営々と地元の土産物店で販売されています。

 今日、境内に入りますと参道の左側に大国主の銅像が建っています。みずら髪を結って、大きな袋を担ぎ、兎の前にお立ちになっています。ところが、横の碑文には「だいこく様」と書かれています。

 又、お札売場では米俵に乗った木彫りの小さな大黒天を「ますます繁昌だいこくさま」として販売しています。何れも「こっそり」という感じがします。

11.新たな道

出雲大社婚儀殿神楽殿

 明治33(1900)年の大正天皇御成婚ではキリスト教式を基に考案された「神式結婚式」が挙行されました。

 それまで日本では夫婦になることを周囲の人々に認知させることに主眼がおかれ、多くは披露宴での固めの杯が儀式であり、特に結婚式というものはありませんでした。大社はこれに着目しました。

 現在大社では「縁結びの神」を前面に打ち出しています。国宝の本殿をしのぐ巨大な「神楽殿」が造営され、結婚式場としての性格を強めています。

 大黒天を表に打ち出しづらい神社の新しい生きる道です。結婚式を行う「神楽殿」には賽銭箱が置かれ「縁結び」を願う人々の参拝が絶えません。

 「祖霊社」では仏式葬儀も行っており、日本の信仰の原点に戻りつつあります。大黒天が「こっそり」でなくなるのも時間の問題でしょう。それが日本の出雲信仰だったのですから。

出雲大社終わり

写真上 出雲大社 大黒天木像の販売
写真下 出雲大社婚儀殿神楽殿